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丸山型電気コタツ [テクノロジー]

電気コタツ第1号1.jpg ぼんくら少年は地域の問題児になるほどやんちゃで活発な子どもだったけど、小学生の頃は体がヤワというか風邪を引きやすいうえに、入院が必要なぐらいこじらせちゃうこともあった。親がこれに心を痛めたのは言うまでもないことで、冬場ともなれば布団に必ず電気コタツをセットしてくれた。
 ぼんくら少年の足を温めてくれていたのは、とても不思議なコタツだった。イングリッシュ・ブレッドのような愛嬌のある形。木製で、足で触ると少しザラザラするんだ。そのくせ電源が入っていなくても温かみを感じる肌触りだった。
 コタツが温まってくると、布団の中はほんの少し焦げ臭くなるんだけど、これは発熱部に付着したホコリが焦げたんだろうね。当たり前だけど、これで布団に火が点いたり、足を火傷したなんてことは一度もなかった。時折、サーモスッタット(温度を一定に保つ装置)の放つカッチンという音がしたけど、ホンワカした暖かさを布団の中の小さな世界にもたらしてくれる電気コタツは、冬の冷たく暗い部屋にひとりぼっちでいる心細さを忘れさせてくれるトモダチだった。
 松下電器が昭和4年(1929)に発売した通称『丸山型電気コタツ』。昭和40年代まで製造が続けられ、三洋電機なども類似品を売っていたから、馴染みのある人も多いんじゃないかな。
 松下幸之助の右腕として知られるエンジニアの雄、中尾哲二郎が生みの親だ。熱源に炭団(豆炭)を使ったコタツが大部分を占めていた当時は、冬ともなれば必ず一酸化炭素中毒による死亡事故や火災事故が報じられていたんだけど、中尾は電気コタツこそがこの問題の解決肢になるんじゃないかと注目したんだ。昭和2年(1927)のことだ。当時も電気コタツはあったんだけど、温度管理の技術が未熟で過熱が原因の火災事故を起こしやすく、とてもじゃないけど安全な暖房器具とはいえなかった。
電気コタツ第1号2.jpg そこで中尾は温度制御の決め手となるサーモスッタットの研究に没頭し、2年をかけて"渦巻き型バイメタルによる即断式サーモスタット"という新型サーモスタットの開発に成功したんだ。これは電流がすぐに切れるように、サーモスタットのスイッチ部にバネの働きをする渦巻き状のバイメタル(熱膨張率の違う2枚の金属板を貼り合わせたもの)を使用したもので、その後の電気暖房器具やアイロンなどの安全性を飛躍的に向上させることになった。昭和31年(1956)、中尾はこの発明で紫綬褒章を受けているよ。
 それから丸山型というのは、丸山さんがデザインしたって意味じゃなくて、その形状のことだからね。コタツが布団に引っかからないように、滑りをよくするために考えられたデザインなんだ。たしかにこれだと問題は解決するんだけど、木材をこんなふうに大量に加工する技術が当時はなくって、中尾は再び頭を抱えることになる。電気工学のプロだけど木工職人じゃないからね。
電気コタツ第1号3.jpg 寝ても覚めてもこの解決法を考えていた中尾はある日、ビア樽に目を留める。
「あれが出来ているんだから出来ないはずはない」
 試行錯誤の末に開発した専用機で荒削りをし、当時としては革新的な機械だったベルトサンダーで一気に仕上げるという工程を開発することで、ついに太平洋戦争をまたいで国民に愛用されることになる電気コタツが誕生したんだ。
 パナソニックでは、今でも渦巻き型サーモスタットを「元祖ブラックボックス技術」、丸山型デザインを「元祖ユニバーサルデザイン」として商品開発の手本としているそうだよ。



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コンコルド [テクノロジー]

コンコルド1.jpg 昭和47年(1972)年は、札幌オリンピックが開催され、浅間山荘事件や千日デパート火災が発生し、川端康成がガス自殺を遂げ、当時通産相だった田中角栄が列島改造論をぶち上げた年だった。テレビのスイッチを点ければトワ・エ・モアが「虹と雪のバラード」を、山本リンダが「どうにもとまらない」を、ガロが「学生街の喫茶店」を、あがた森魚が「赤色エレジー」を、森昌子を「せんせい」を歌っていた。学校の休み時間には、昨晩観た「太陽にほえろ!」や 「ムーミン」「科学忍者隊ガッチャマン」が話題にる、そんな年でもあった。
 大阪万博やアポロ計画の余韻が残っていたのか、科学の約束する明るい未来を妄想していた中1のぼんくら少年にとっては、同年の6月12日に羽田に飛来したコンコルドの記憶が胸に焼き付くことになったんだけどね。
コンコルド3.jpg コンコルドは、フランスとイギリスという犬猿の仲の国が共同開発した超音速旅客機(SST)だ。初飛行は昭和44年(1969)で、1万6000~1万8000メートルという通常の旅客機の倍の高高度をマッハ2.0で飛ぶという、現在の感覚からしても夢のような旅客機だった。
 日本に就航すればアメリカもヨーロッパも、理屈の上では日帰りという信じられないことが可能になるわけで、これは海外旅行さえままならなかった当時の少年少女にとっては、月に行くよりも現実的で夢のような話だった。
 でも現実は違った。SSTが超音速航行で発生させる衝撃波がもたらす地上への悪影響や、高高度を飛ぶ際にオゾン層に与える影響が早い時期から問題となって、乗り入れを予定していたニューヨークでは市民の激しい抗議運動が起きた。
コンコルド2.jpg 経済的な問題もあった。SSTは一度に80~100名ほどの乗客をさばくことしかできない上に燃費もベラボーに悪く、よほどの金持ちでもなければ利用できないような高コスト体質から終ぞ脱却することができなかったんだ。機内はかつてのYS-11型機並みに狭く、居住性もいいとはいえなかったしね。
 皮肉なとことに、こうした問題をクリアできずに早々とSST事業から撤退したアメリカが、旅客用のSSTと平行して貨物機として開発していた機体を旅客機に転用したことで、SSTはとどめを刺されることになる。ボーイング747、つまりジャンボジェット機はこうして誕生したのだった。
 その後、世はグローバル化にシフトして人々が国境を越えて行き来するようになり、ジャンボジェット機のような大型旅客機は時代の要請に応えるように次々に開発と製造が行われていったけど、SSTはコンコルド以降、後続機が開発されることはなかった。
 コンコルドは原型機4機も含めて計20機が製造され、パリ・ロンドン-ニューヨーク・ワシントン間、パリ-ダカール-リオデジャネイロなどを定期運行路線として細々と運行を続けていたんだけど、平成12年(2000)7月25日に発生した墜落事故の影響と、翌年のアメリカ同時多発テロによる運行会社(エールフランスとBA)の収益悪化の余波を受け、平成15年(2003)11月26日のヒースロー着陸をもって全機が運行を終了してしまった。
 平日だったので残念ながら直接、会うことはできなかったコンコルド。ニュースは釘づけになって観てたけどね(笑)。大人になる頃にはこれに乗って世界中に行けるのかな、と思うと本当にワクワクしたなぁ。タマゴ飛行機以外は手をつけたことのないぼんくら少年が丹精込めて作った唯一のプラモデルもコンコルドだった(まだ実家にありますぜ♪)。それだけ思い入れのある飛行機だけに、不遇な生涯を思うと今でも悲しくなるんだ。
コンコルド4.jpg 平成12年(2000)の事故の映像は、事故機が離陸する直前に整備不良のコンチネンタル航空機が落としたパーツが原因だったことや、搭乗者109名と地上にいた4名の尊い人命が奪われてしまったことを思うと本当にやりきれなくなっちゃう。犠牲者と悲運のコンコルドに心から哀悼の意を表したい。



■コンコルドの離着陸とコックピットの映像 2003年■

http://www.youtube.com/watch?v=_5xZSCGlDW4



■コンコルドの機内です。いやぁ、狭いですねぇ!■

http://www.youtube.com/watch?v=ArENfr9aOvU&feature=related



■2000年7月25日の墜落事故の様子です。シャルル・ド・ゴール空港にて■

http://www.youtube.com/watch?v=Qid2s89OfZU&NR=1


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霞ヶ関ビル [テクノロジー]

霞ヶ関ビル1.jpg 42年前の今日、4月12日に日本の建築史を塗り替える巨大建築が落成した。『霞ヶ関ビルディング』だ。地上36階、地下3階、地上からの高さが147メートル。日本初の超高層ビルで、三菱不動産の所有だ。設計はN.Y.T.アトラスタワー西新宿や帝国ホテルインペリアルタワー、法大のボアソナードタワーを手がけた山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設のJV(企業共同体)が行った。
 着工は昭和40年(1965)。2年で上棟し、4年目に開業に漕ぎつけたわけだからパッと見た目には至極順調に事が運んだような感じもするんだけど、実際は苦難の連続だった。
 地震国の日本では昭和37年(1962)まで法律で百尺規制と呼ばれる建物の高さ制限があったために、31メートルを超える建物のノウハウがまったくなかったんだ。それに高い耐震性をもった超高層ビルなんてものは海外でも例がなかったのでお手本もなく、技術の大半は自前で編み出さなければならなかった。
 そんなせいなんだろうね、非常階段はなんと中央の共用部に設置されてるんだよ。停電しちゃったらエラいことになるんじゃないか? いやいや、素人考えってもんでしょー、これは。と思ったら、やっぱり後で問題になったんだって(笑)! 火災時の煙が溜まらないための工夫だったんだけどね。まあ、初めてのことなんて、こんなもんなんだろうな。
 13階は縁起が悪いからと、テナントは入れずに空調機などの機械室になってるってのも面白い。なのに4階はフツーに使われてるし。日本のビルなのにね(笑)。
 以前は最上階の36階は展望台になってたから、ここからの眺めを覚えている人もいるんじゃない? ぼんくら少年も家族と出かけて、展望台で記念スタンプを押した記憶があるよ。現在はオフィス・フロアになっちゃってるから、見れた人はラッキーだったね♪
 そういや今どきの報道番組なんかで莫大な体積を表現するのに「東京ドーム○個分の」なんて言い方をしてるけど、かつては「霞ヶ関ビル○杯分の」って言ってたよね。ちなみに霞ヶ関ビルの容積は約50万立方メートル。重量にして約10万トンに相当する。やっぱデカいわ!
霞ヶ関ビル2.jpg もう出来てから40年以上が経ち、建物としちゃ如何なもんかと思いきや、IT関連の設備を段階的に投入したりテナントを入れ替えたり、隣接する商業エリアの増改築を怠らないなどの努力で、資産価値の減らない優良ビルとしての評価は高く、海外からも関係者が頻繁に視察に訪れているそうな。
 霞ヶ関ビルは、技術力の高さと運用面の秀逸さにおいて未だに日本が誇れる建造物なんだね。改めて昭和を支えた人々に感謝!



■NHK「プロジェクトX 霞ヶ関ビルの建設 超高層への果てなき闘い」より■

1: http://www.youtube.com/watch?v=9IWehx4xyuA
※この続きはYouTubeですべてを観ることができます。
2: http://www.youtube.com/watch?v=IGWMb7Ll_To&feature=related
3: http://www.youtube.com/watch?v=iZUoJ6aIMgg&feature=related
4: http://www.youtube.com/watch?v=Tf17102ezj0&feature=related
5: http://www.youtube.com/watch?v=dk7C5421Dho&feature=related


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ラッタッタ♪のロードパル [テクノロジー]

ロードパル1.jpg ラッタッタ♪ とくりゃソフィア・ローレンだし、ホンダのロードパルでしょー! 
「うんうん♪」
 と首を縦に振った貴方は間違いなく昭和生まれだ(笑)。
 本田技研工業が昭和51年(1976)に発売した原チャリの『ロードパル』は、ソフィア・ローレンがCMで使った“ラッタッタ”というキャッチフレーズとともに空前の大ヒットとなった。
 もちろんCMだけで売れたんじゃなく、バイクは男のものというしょーもない思い込みを捨てた結果の大当たりだったんだ。女性が違和感なく乗れるように、いわゆるママチャリの構造をベースにしているのがロードパルの真骨頂だ。
 先ず車重が44キロと軽い。当時若者の間で同じく大ヒットしていたヤマハのミニトレ(GT50)でも62キロあったことを思うと、ロードパルの軽さがどんなに際立っていたかが分かる。これはエンジン回りとチェーンケースなどの駆動部をリア部と一体化したり、ミニサイクル並みの14インチタイヤを採用したりといった小型化の努力の賜だった。こうした技術革新は、その後のスクーターの進歩に大きく貢献することにもなったんだよ。
ロードパル2.jpg それまでバイクの始動にはお約束だったキックペダルも捨てちゃって、代わりにタップスターターというキックペダルのようなものを4~5回踏んでからブレーキレバーを握ればエンジンが始動するという画期的なシステムが採用された。これって仕組みは実にシンプルで、タップスターターを踏み込むとゼンマイが巻かれるんだよね。ブレーキレバーを握るとゼンマイはリリースされて、セルモーターのようにクランキングが始まってエンジンが始動するんだ。
 このシステムは後に走行中に自動的に巻き取られる仕組みに変わり、クイックボタンを押したままブレーキレバーを握りさえすればエンジンが始動するようになった。
 ママチャリと一緒でスカートを穿いていてもまたがることができ、しかもボタンとブレーキレバーだけでエンジンがかかる。おまけに前面に買い物カゴをつけることもできたわけで、これは女性ばかりじゃなく男性にも便利でお手軽なバイクだった。
 ロードパルはぼんくら家にもあって、当時小中学生だった弟を除いて全員がお世話になってたよ♪ 自転車とそう変わらない感覚で使えたから、ちょっとした買い物や移動には本当に便利なバイクだった。
 ロードパルの出現は、ライバル会社の間でミニバイクの開発販売競争に火をつけることになり、ヤマハのパッソルやスズキのユーディミニなどの競合車が次々に市場に投入されることになった。それでもロードパルの人気は強く、ホンダが小型スクーターに軸足を移す昭和58年(1983)まで生産は続く。
ロードパル3.jpg 昭和59年(1984)には、ロードパルよりもはるかに自転車に近い『ホンダ・ピープル』が発表されたけど、スクーターを上回る高価格でまったく売れず、数年で姿を消してしまった。
 近年、電動アシスト自転車が急速に普及してきたけど、あれはロードパルとは似て非なるものだ。ロードパルはあくまでバイクだったわけで、
「ラッタッタ」
 とパタパタ音を響かせてくれないと後継車とはいえないよね。また出ないかな、ロードパルの子孫♪



■ロードパルやミニスクーターの懐かしいCM集です♪ 1977-1996年■

http://www.youtube.com/watch?v=JERxp2Am4F0&feature=PlayList&p=A69F43254FEE916C&playnext_from=PL&playnext=1&index=3


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ウォークマンが出た! [テクノロジー]

 バイトをするようになると当然、物欲にも火が点いていろんなものを買うようになるよね。高校生や大学生の頃にバイトのお金で買ったもので何か覚えているものはある?
 ぼんくらオヤジは、もっぱらバイトのお金を旅行の資金にしていたので物品の購入に充てることはあんまりなかったんだけど、ひとつだけ鮮明に覚えてるのは、昭和56年(1981)の春休みにソニーの『ウォークマン』を買ったことだ。
ウォークマンWM-2.jpg 当時のウォークマンだから当然カセットで、オプションのバッテリーパックも単一アルカリ電池を2本ブチ込むというヘビーなものだったけど、これと併用すると60時間は音楽が楽しめるというスグレモノでもあった。ぼんくらの買ったものは写真のWM-2型で、通算で250万台を出荷するという大ヒットを記録した。
 昭和54年(1979)7月に初代ウォークマンが発売されてから、ぼんくらはこれが欲しくて堪らなかったんだよね。だって、場所と時を選ばずに好きな音楽が聴ける携帯型のステレオ・プレイヤーなんて、レコードとバカでかいラジカセしかなかった時代には夢のようなアイテムだったんだもん。人並みに音楽好きだったぼんくらは、たちまちにしてウォークマンの虜になり、アルバイトで稼いだ生活費を切り詰めて購入資金を貯め始め、半年後に遂に念願のウォークマンを手に入れたのだった。
 通信社のメッセンジャーボーイのバイトをしていて、時給も当時としては破格の800円近くは貰っていたし、どうにもならなければ電車で30分の実家に転がり込めばいい身だったので実入りはそんなに悪くなかったんだけど、それでもオプションも併せれば4万円にもなるわけで、やっぱりカンタンに手の届く代物じゃなかった。
 しかもお金が貯まり、嬉々として買いに行ったら現物がないので予約してくれとのこと。足を棒にして都内のソニーショップを点々としてみたけど結果は同じで、泣く泣く幼馴染みの家で経営していたソニーショップで予約。手もとに届くまでは1ヶ月近くも待たされちゃった。
 だから物を受け取った時の感動といったらなかったね! 下宿に戻る時間ももどかしかったので歩いて数分の自宅に小走りで向かい、家族が見守る中で箱を開けた。コンパクトなボディとその軽さに、操作ボタンのデザインの斬新さに、ダイダイ色のヘッドフォンに、オプションの電池ボックスに、いちいち家族全員が、
「おお~っ」
 震える手で単三電池を2本、本体に装填し、家に転がっていた適当なカセットテープをセットしてヘッドフォンをかけ、再生ボタンを押す。
「おおお~っ」
 こんなコンパクト・プレイヤーのどこからこんなに豊かで臨場感のある音が出てくるのかと再び感動。とはいっても、周りの家族にはシャリシャリとしたおとしか聞こえていないので、ぽかんと口を開けてこちらを観ているだけ。間の抜けた光景だったろうね(笑)
「聴いてみれっ、みれっ!」
 感動のあまり何語だか分からない言葉でヘッドフォンを回すと、音を聴いた家族がいちいち、
「おおお~っ」
 老若男女に関わらず感動するだけの技術を持っていたんだ。時代もここまで来たのか、みたいな。
 そんなこんなで1ヶ月ほど経ったある日、再び実家を訪ねたぼんくらは、ひっくり返るほど仰天してしまった。居間のソファで父が見馴れたオレンジ色のヘッドフォンをしてイビキをかいていたのだ。もちろんその先にあったのは…。



■ヒューバート・カーの "Angel 07" バージョン 1985年■

http://www.youtube.com/watch?v=x1sZxdcPDSQ



■初代チョロ松バージョン 瞑想する姿が印象的でしたね♪ 1987年■

http://www.youtube.com/watch?v=IKzNIP1x1R4



■初代チョロ松バージョンのパロディ by 志村けん 年代不明■

http://www.youtube.com/watch?v=ODJeNKxJgR8


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シッカロール [テクノロジー]

なく声の大いなるかな汗疹(あせも)の児   高浜虚子

シッカロール1.jpg かつて赤ちゃんや小さい子どものいる家なら置いてあったベビーパウダー。なかでも和光堂の『シッカロール』はベビーパウダーという言葉以上に普及していたように思う。
 シッカロールが世に出たのは明治39年(1906)のことだ。和光堂薬局の開設者である広田長博士と東京帝大の丹波敬三教授が共同開発したものなんだけど、原型は江戸時代の民間薬にまで遡ることができる。
 貞享2年(1687)の『女用訓蒙図彙』という女性向けの心得書に、
「はまぐりがいをやきて、うどんの粉と粉まぜて布につつみて、ふるいかけてよし」
 なんていう汗疹の処方が書かれるんだよ。
 また、貝原益軒の弟子でお医者さんの香月牛山は、
「牡蠣粉、或いは葛の粉又は天瓜粉(天花粉)をすり塗りたるがよし、かくのごとくすれば夏はあせぼを生ぜず、いずれも皆粉を随分細かにしてぬるべし」
 と、『小児必用養育草(元禄14年[1703])』で赤ちゃんの汗疹用の薬を紹介している。いずれも貝殻を焼いて粉にした無機物とデンプンを組み合わせたものってことだよね。無機物の微細な粒子は肌に付けると毛細管現象によって水分を吸収し、デンプンは適度な保湿作用を持つ。決して皮膚を乾燥させるんじゃなく、無機物の微細粉を介在させることで皮膚同士の摩擦を少なくし、汗疹を出来にくくするわけだ。
シッカロール2.jpg 発売当時のシッカロールも基本は同じで、成分は亜鉛華(酸化亜鉛)40パーセント、珪酸塩鉱物の一種であるタルク(滑石)が40パーセント、そしてデンプンが20パーセントだった。これを薬局の片隅にあった4畳半の部屋で乳鉢で混合しながら細々と作っていたんだそうな(笑)。
 シッカロールはその後、当時としては急速にその存在を知られ、赤ちゃんの必需品として普及していった。
 そのシッカロールも最近では、すっかり影が薄くなっちゃったよね。昭和62年(1987)にタルクの一部からアスベストが検出され、安全性に疑問符が付いちゃったのが痛手だった。これは現在は厚労省の管轄下で厳密な原料管理が行われていて今は問題とされていないけど、これがきっかけで、厚く塗っちゃうと逆に汗腺を塞いでしまったり、赤ちゃんが粉を吸引して肺にタルクを蓄積してしまう危険性などが指摘されるなど、逆風は収まらず、市場には次々にシッカロールに取って代わる製品が投入され、シッカロールはいつの間にか主役の座から滑り落ちてしまった。
 最近では乳幼児以上の子どもたちや大人が使用するケースが増えてきて、再び売り上げが伸びてきているとのこと。多汗質の人はもちろん、ジトジトした季節にはあのサラサラ感が心地よいと再評価をされてのことだ。赤ちゃんに使用する時と同様、汗疹やただれを起こしやすい部位に、パフなどで薄く、撫でるように、あるいは軽く押さえるように塗るのがポイントだそうだよ。先にも書いたけど、くれぐれも厚塗りは厳禁だからね!
 ちなみにシッカロールという名前は、ラテン語で「乾かす」を表す "siccus" に由来するとのこと。明治末としちゃえらくハイカラな名前だったろうね。
 
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さようなら、白熱電球 [テクノロジー]

電球1.jpg 東芝が今年、平成22年をもって電球の生産を終了する。
 国産初の白熱電球の生産を東芝が開始したのは明治23年(1890)。イギリス人のスワンが発明したのが明治11年(1878)、それを追うようにエジソンが翌明治12年(1879)にエジソンベースと呼ばれるネジ式口金の実用的な電球の生産を始めて10年後の快挙だった。
 日本で電灯が点ったお初は明治11年(1878)3月25日、東京虎ノ門工部大学校(現東大工学部)で開催された電信中央局の開業祝賀晩餐会の席上だったんだよ。日本のエジソンと呼ばれる藤岡市助や電気工学のパイオニアだった中野初子(「はつね」と読む。男性です^^;)らがフランス製のアーク等を点灯させて列席した人々を驚かせたんだ。
 もっとも、それから明治20年(1887)にインフラとしての東京電燈(現東京電力)が設立されるまでには10年近くを要したし、当初の電球はアメリカ製やドイツ製の高価なものしかなかったわけで、とても一般家庭に普及するような代物じゃなかった。
電球2.jpg それだけに当時の日本にとって電球の国内生産は国家的な悲願だったわけで、現実に先の藤岡市助は、明治17年(1884)のフィラデルフィア万国電気博覧会に国の特使として派遣されてエジソンに面会し、電球を含む電化製品の国産化の指導を受けているんだよ。帰国して5年後の明治22年(1889)、藤岡は電球の国内生産に向けての研究を始めるんだけど、ガラス管球をどうすれば作れるのか、できた管球内部を真空にするにはどうすればいいのか、フィラメントはどんな材料で作ればいいのか等々、すべてが手探りの開発だった。それでも藤岡は矢継ぎ早に解決策を見出し、翌明治23年(1890)4月には東芝の母体のひとつとなる「白熱舎」を東京の京橋槍屋町に設立し、同年に竹フィラメントの炭素電球12個の製造に成功したんだ。
 以降、生産の拡大と共に電球の単価は大幅に下がり、やがて一般家庭にも普及して、日本の近代化は大きく前進することになる。新美南吉の『おぢいさんのランプ』はこの頃を話題にした物語だね。昭和17年(1942)に「50年ぐらい前の話」となってるから1890年代の後半には、灯油ランプが電球に取って代わっていったことが分かる。
電球3.jpg 白熱電球は、もちろん昭和史を語る上で欠かすことのできないアイテムでもある。戦時中、夜間の空襲時に真っ先に庶民が手を伸ばしたのは電球の根元にあるスイッチだったし、戦後の焼け野原やバラックで、そして闇市を明るく照らしたのも裸電球だった。蛍光灯に変わるまでは、夕暮れ後の帰り道や一家団らんの居間を暖かい光で照らしてくれたのも電球だった。
 じきに姿を消すことになる白熱電球だけど、あの優しい光は過去を照らす照明として、ボクら昭和生まれの心に生き続けることだろう。



■東芝「電球への思い」 白熱電球生産終了のお知らせです■

http://www.youtube.com/watch?v=USTEcoQKmdQ



■ナショナル電球のCM 1970年■

電球
アップロード者 mrhayata. - ライフ&スタイルの動画をもっとご覧ください。


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カセットテープ [テクノロジー]

カセットテープ1.jpg 1990年代の後半にMDに主役の座を明け渡すまで、『コンパクトカセット』は『カセットテープ』とか『アナログカセット』なんて呼び名で親しまれ、ボクらの生活に欠かせないアイテムだった。
 コンパクトカセットは、昭和37年(1962)にオランダのフィリップス社によって開発された音声用磁気記録テープの規格で、昭和40年(1965)にフィリップス社が互換性を条件に特許を無償公開したことから、多くのメーカーが参入して実質的な国際標準規格になったんだよ。日本では、昭和41年(1966)に東京電気化学工業(現TDK)によって発売されたのがお初だ。
 磁気テープが専用のカセットに収められているため、テープが汚れたり、よれてグシャグシャになり難くなったので、むき出しのオープンリールに比べて飛躍的に扱い易くなった。名前の通りコンパクトになったので、持ち運びはもちろん、録音再生用機材の小型化という革命ももたらした。当時の若者文化を彩ったウォークマンは、カセットなしにはあり得なかったよね。
 もちろん、いいことずくめなはずもなく、物理的にオープンリールの半分以下の幅しかない磁気テープで高音質のサウンドを録音再生するのは技術的に無理があったので、基本的に音質はデッキに左右されることになってしまった。
「え~、ホント? だって高音質の録音テープがあったじゃん! 好きなアーティストの音楽は小遣いはたいて高いテープ買ったんだぜ」
カセットテープ2.jpg って思った人もいるだろうね。ぼんくらオヤジもそうだ。もちろん看板に偽りがあったわけじゃなく、そうしたテープは音質や耐久性の点で標準的なものよりも優れていたのは確かなので安心してね。ただ与えられた状況下での改良に過ぎなかったってことだね。基本的な技術革新による音質改善は1980年代後半のデジタル・コンパクトカセット(DCC)でようやく実現したんだけど、その頃には既にCDやMDが普及し始めていて、サーチや頭出しが不得手なDCCの居場所は無くなっていた。
 それでも取り扱いがカンタンなことや以前に録った貴重な音源の再生に必要だということもあるんだろうね。特に高年齢層には根強い支持があって、テープやラジカセ、デッキなどは、未だに家電店では定番商品だよ♪



■TDKカセットのCM by サザンオールスターズ 1980年代後半■

http://www.youtube.com/watch?v=itCFYTFzmew



■SONYカセットのCM by Princess Princess 1989年■

http://www.youtube.com/watch?v=iz92oTAFO7Y



■maxellカセットのCM by THE MODS 1983年■

http://www.youtube.com/watch?v=xCAngs0oXTU



■ナショナルカセットのCM by 近藤真彦 1985年■

http://www.youtube.com/watch?v=UxpB0LYmKiQ



■フジAXIAのCM by 坂井真紀 1994年■

http://www.youtube.com/watch?v=VexlTyse404


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コラーゲンと昭和 [テクノロジー]

コラーゲン1.jpg 今日、1月26日は『コラーゲンの日』として日本記念日協会に登録されてるんだけど、知ってた? 実はこの情報、ぼんくらは先日まで知らなかったんだけど、ブロ友の93chanさんが教えてくれたんだよ(93chanさんに感謝!)。昭和35年(1960)に、日本皮革研究所(現ニッピ・バイオマトリックス研究所)の西原富雄博士が「不溶化コラーゲンの可溶化技術」の特許出願を記念してのことなんだけど、これがどうして日本の記念になるほどのことなんだろう?
  コラーゲンは肌や人体、腱、骨、軟骨などを作るタンパク質の一つで、身体を構成するタンパク質の約3割を占めている。なんでそんなに大きな比重を占めているかというと、コラーゲンは主に多細胞生物の細胞と細胞をくっつけ、骨や軟骨などでは骨組みの役目も果たしている物質だからだ。
 もちろんヒト以外の多細胞生物にも例外なくコラーゲンは含まれていて、人間は古来からコラーゲンを自然界から得て利用していた。例えば、膠(にかわ)は獣や魚の骨、皮などを石灰水に浸してから濃縮し、冷やして固めた接着剤だし、同様の方法でゼラチンのような食品も作り出してきた。こうしたコラーゲンは水溶性(可溶性)のものでカンタンに抽出することが出来るんだけど、大量には得ることが出来ない。
コラーゲン2.jpg コラーゲンのほとんどは安定した不溶性(水に溶けない)のもので、これを可溶性のものにして抽出できるかどうかが工業化のカギになってたってたんだけど、それを実現したのが先の西原博士の研究だったんだ。医療用インプラントの素材や食用ゼラチン、接着剤や医薬品のカプセル、化粧品などに使用する工業用ゼラチンが大量に安定供給されるようになったのは、この研究成果のおかげといっていいだろう。
 ヒトのコラーゲンは現在、30種類以上が知られているけど、最も代表的なコラーゲンはI型と呼ばれていて、骨や皮膚に非常に多く含まれている。昨今もてはやされているコラーゲンはこれで、塗ると潤いのある肌になるってことで様々な化粧品に配合されている。でもね、残念ながら期待できるのは保湿剤の役割だけで、これを塗ったからといってコラーゲンが皮膚に吸収され、皮膚の健康に役立つことはないんだよね^^; 
 これは食べる場合も同様で、コラーゲンを豊富に含んだサプリやコラーゲン鍋なんかが皮膚の張りを保ったり関節痛を軽減するという説も、少なくとも厚労省は認めていない。経口摂取しても、消化の段階で単なるアミノ酸に分解されちゃうからだ。ただし、単体ではなくビタミンCやリシンと一緒にコラーゲン入り食品を食べると細胞の再生を促進する可能性のあることも京都府立大学の研究などで明らかになってきているので、今後の研究次第では実効性のある美肌食品も夢じゃないかも♪
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電気コンロ [テクノロジー]

電気コンロ1.jpg ぼんくら少年が小3の冬だったと思う。居間で妹とトランプをしていたら、台所から母の金切り声が聞こえてきた。何事かとトランプを蹴散らして台所に駆けつけると、食器棚の下の引き戸が開いていて、床には赤いコンロが引っぱり出されていた。そしてその脇には涎を垂らした2才の弟がデンと座っていて、楽しそうに電気コンロのニクロム線を引っぱり出していたのだった。
 後で父がブツブツ言いながら伸びたニクロム線を太釘に撒いてクセをつけ、躍起になって溝に戻していた姿が未だに目に焼き付いてる。そんな無茶苦茶な方法で「直した」のにちゃんと使えたんだから、当時の機械ってシンプルだったんだねぇ(笑)。
電気コンロ2.jpg 電気コンロは、ニクロム線などの高い電気抵抗を持つ伝導体に通電させることで発生するジュール熱で調理する器具だ。昭和40年代に出回っていたものは通電回路が露出していて、漏電や感電の恐れが高い危険な代物だったんだけど、最近のものは絶縁性の高い素材で通電回路を覆ったシーズヒーターになってるよね。それでもIHに変わる前の電気ヒーターは、ビルトイン式の調理台すらも基本的に昭和の電気コンロと同じ構造だったわけで、それを思うと、つい最近まで台所のテクノロジーは大阪万博前と大差なかったことになる。
電気コンロ3.jpg しかも意外なことに、IHの原理が発案されたのは昭和46年(1971)で、世界初の卓上タイプのIHクッキングヒーターが発売されたのは昭和49年(1974)。普及したのが平成だったわけで、開発自体は昭和史に属する技術だったんだね。昭和生まれよ、昭和が古いといちばん思い込んでるのは、昭和生まれなのかもよ(笑)。
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