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ありがとうございました!(BlogPet)

ぼんくらオヤジの「ありがとうございました!」のまねしてかいてみるね

さてさてさてさてさて、干からびた記憶の目標の幸せな解釈等々になるします!貴方とご家族の年始にかけて流れたCM集■>

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

ありがとうございました! [その他]

 さてさて、ぼんくら一家もお正月は東京の実家に戻るので、今年は今日で打ち止めです^^ 今年は弟一家と一緒に過ごす8年ぶりの年末年始になるし、明日は幼馴染みたちとのパーティもあったりで結構、慌ただしいものになるかも。
 ブログを始めて早、半年。毎回毎回、中途半端な記事をコメントやメールでフォローしてくださいましたこと、心より御礼を申し上げます。個人ではどうにもならない記憶の欠落や理解の浅さ、独りよがりになりがちな解釈等々にお一人お一人が手を加えたり修正してくださることで、干からびた記憶が豊かに復活する様を日々、驚きをもって見つめ、感じて参りました。
ありがとう♪.jpg  このブログでぼんくらが目指しているとりあえずの目標は、昭和の断片を1000片集めることです。半年かかってようやく目標の5分の1。まだ先は遠いなぁ(笑)。それまではぼんくらオヤジを見捨てないでくださいね。来年もどうかよろしくお願いします!


 貴方とご家族の幸せな年末年始を
心より祈念して

 ぼんくらオヤジ拝



■昭和58年(1983)年末から昭和59年(1984)の年始にかけて流れたCM集■
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タグ:昭和 年末 年始
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竹スキー [遊び]

竹スキー1.jpg ぼんくら少年が2年ほどいた福島の温泉町は、長いトンネルで山形側に突き抜ければ日本有数の豪雪地帯というロケーションだったので、当然のようにスゴい積雪量だった。チョッと降っただけで60センチは軽く積もるんだもんね。10センチ降ったって大人が大騒ぎする東京から急にそんなところに放り込まれたもんだから面白かったのなんの! 冬休みは福島でできた新しい友達や東京から泊まりがけで来てくれた幼馴染みたちと雪遊びを満喫したよ♪
 雪合戦や雪だるま&かまくら作りを楽しんだのは言うまでもないけど、いちばん記憶に残っているのが『竹スキー』だ。本当は作ることから始めてれば言うこと無かったんだろうけど、当時の福島では駄菓子屋さんや雑貨屋さんで売ってるアイテムだったんだよね。だから一式100円程度で買って滑ってた。
竹スキー2.jpg 竹スキーってひとことで言っても、本当のスキー板ぐらいあるものから50センチ前後の短いものまで長さも様々だし、先端を極端に反らせてそこにつま先を引っかけるものからビンディングに近い凝った仕掛けのあるもの、両方の板の先端にロープを通してそれを手綱にするものなどいろんなものがある。ぼんくら少年が福島で遊んでいたのは50~60センチの長さで手綱の付いているタイプだった。
 竹スキーの歴史は明治44年(1911年)に遡る。新潟県高田市(現上越市)でオーストリア軍人のレルヒ少佐が日本軍にアルペンスキーを指導した時のことだ。これを遠巻きに見物していた人々の中に、見よう見まねで竹を細長く削り、先端を火で炙って曲げ、それに古下駄を打ち付けたスキーを作る者が現れた。これが元祖竹スキーらしい。大竹を真っ二つに割って先端を曲げたものや、細竹を並べて接いだ竹スキーなどを子どもにせがまれた父親が作ってやったりしているうちに、竹スキーはそれからほどなくして日本中に広まることになった。
 これとは全く別に、北海道では本格的なスキー板としての竹スキーの製作所が札幌や小樽で開業し、一時は特産品として本州でも評判を呼んでいたらしい。残念ながらこちらのほうは板スキーの普及と共に歴史の闇に消えてしまった。
竹スキー3.jpg 戦後は子どもの遊び道具になっちゃった竹スキーだけど、本格的なスキーが子どもたちの間に浸透している今ですら、雪のあるところではソリと竹スキーが健在だよ。最近はプラスチック製のミニスキーも使われてるけどね。
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ニッキ水 [食]

ニッキ水.jpg コテコテの甘さと舌と喉を刺すような刺激、そして強烈なシナモンの香り。え、まだ分かんない? じゃね、黄色、赤、緑、そしてひょうたん型の容器。がははは、もう分かったよね、『ニッキ水』だよ♪
 アメとムチを地でいく飲み物というべきか、勘弁してもらいたいような極端な甘味とピリピリした刺激が同時に舌を遅う超過激なドリンクではあった。鼻を突き抜けるようなシナモンの香りは、飲んだ本人ばかりか半径5メートル以内の人を悶絶させるだけの威力をもっているのだ。嗚呼、恐ろしい。
 ハッキリ言っとくけど、これは超弩級に危険な駄菓子なんでR。先日、ぼんくら次男にニッキ水を渡したら注意する前にグビッて飲んじゃって、直後に咳き込んで床を転げ回ったぞ。ニッキ水恐るべし! べしっ
 そう、怖い物好きが多いってことなんだろうけど、これって今でも売ってるんだよね。以前はいろんなメーカーが作ってたみたいだけど、今では大阪の大川食品工業や四国の四国明治飲料(有)ぐらいだろうか、ニッキ水を作ってるのは^^; 他に知ってるところがあったら教えてね。全国ニッキ水マップを作るから(笑)。
 ところでこのニッキ水、家庭で作ることもできるんだよ。シナモンの好きな家庭だったら試してみる価値アリだよ♪
 300mlのシナモン水を作るには、シナモンスティック(7cmぐらい)1本、砂糖20g、レモン1/4、水300mhがあればOK。
 先ず、鍋にシナモンと砂糖、水を入れて10~15分ほど煮込む。そして火を止めたら、これにカスをこし取ったレモン汁を加えて好みの味に仕上げる。これを冷やせば美味しいニッキ水の出来上がりだ。カンタンでしょ? 売ってるニッキ水みたいな刺激はないけどね。
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デパートの大食堂とお子様ランチ [食]

大食堂1.jpg 昭和の子どもたちにとって、家族と出かけるデパートのお目当てといえば最上階の大食堂だったし、そこで食べられるお子様ランチだったよね。眼下に広がる街の景色を眺めながら、新幹線やクルマをかたどったランチ・プレートと、それに盛りつけられた何種類もの料理が楽しめるなんて本当に最高の気分だった。食事の後で行くはずの屋上遊技場のことも頭にあったしね(笑)。
 日本で初めてデパートに食堂を設けたのは日本橋の白木屋で、なんと明治40年(1907年)のことだ。同年に、若干遅れて三越でも食堂が開業。三越呉服店として日本初の「デパートメントストア」宣言をおこなってから3年目のことだった。
お子様ランチ.jpg 開業が早かったせいかどうかは分からないけど、お子様ランチのお初を世に送ったのも三越で、昭和5年(1930)に日本橋三越の食堂部主任だった安藤太郎氏(アンタローさんの名でも有名)によって考案された。当時は「御子様洋食(定食)」という名前だったよ。お一人様30銭也ぃ。当時のお子様用ハヤシライスが15銭だったことを思うと、相当に贅沢なメニューだったことが分かるよね。ご飯を山型に盛って旗を立て、おかずにハンバーグやエビフライ、唐揚げ、ナポリタン・スパゲティ、プリンなどを添えてひとつのプレートに盛って出すというお約束は、既に御子様洋食の頃には出来上がっていた。
 なんでライスに旗を立てたのかについてはハッキリしたことが分かっていない。
「山のてっぺんには旗を立てるもんでしょう!」
 と、登山愛好家だったアンタローさんが言ったとか言わなかったとか。今となっては確かめようもなさそうだけど。
 ボクらに馴染みの深い「お子様ランチ」の名を生み出したのは上野松坂屋で、三越に遅れること1年後の昭和6年(1931)のことだった。
 デパートの大食堂が全盛期を迎えたのは、百貨店が庶民のものとなった戦後で、高度経済成長期たけなわの昭和30年代も後半になってからだ。飽食と少子化のダブルパンチで何でも屋の座を専門店に明け渡す昭和50年代まで、デパートの大食堂は、最上階まで客を引き寄せ、結果、全階を回らせるという役目を担い続けたのだった。
大食堂3.jpg 現在、最上階に大食堂があるのは岩手県花巻市のマルカン百貨店を残すのみだけど、お子様ランチは意気軒昂で、ほとんどのファミレスではお子様ランチがメニューとして残っているよ。「キッズ・プレート」なんて名前になってるところもあるけどね♪


■ベニヤ(山形)「ちからみそ」CM 昭和30年代の大食堂が舞台です♪■



■1960年代の東京の様子 ぼんくらの幼児期かな。断片的に覚えてます■



■1970年代の新宿の様子 ぼんくらが10代の頃なので鮮明に覚えてます■


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昭和のクリスマス [その他]

 今日はクリスマスのお休みを頂いてるよ^^ YouTubeで拾った昭和28年(1953)から昭和58年(1983)までの10年おきのクリスマスを楽しんでね♪ ケータイの皆さんはゴメンなさい^^; 明日からフツーに戻ります。


■江利チエミの「ジングルベル」 1953年■



■コカコーラのクリスマスCM 歌はフォーコインズ 1963年■



■TVドラマ「雑居時代」 懐かしいですね、石立鉄男♪ 1973年■

http://www.youtube.com/watch?v=8-_mZuqJARQ (YouTubeでご覧ください)



■中森明菜の「ジングルベル」 1983年■


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本当にあった戦場のメリー・クリスマス 『塹壕の聖母』 [その他]

 昭和17年(1942)、ヒトラーによって引き起こされた独ソ戦はスターリングラード(現ヴォルゴグラード)をめぐる攻防戦になっていた。お得意の電撃戦で広大なロシアの国土に深く切り込んだドイツ軍は、逆に補給路を断たれるという愚を犯して、23万人ものドイツ軍兵士(枢軸国軍を含む)がスターリングラードでソ連軍に包囲されてしまっていたんだ。
 ドイツ軍の軍医としてスターリングラードにいたクルト・ロイバー(当時36才)は、その壮絶な様子を次のように記している。

クルト・ロイバー.jpg 私はクリスマスを同僚の軍医や傷病兵たちとともに過ごした。将校はクリスマスカードに添えて最後の一本だったシャンパンを渡してくれた。私たちはマグカップを高く掲げ、愛する人たちのことを覚えて飲もうとしたんだ。でも酒を味わう前に塹壕の外で爆発音がしたので、カップを地面に放り投げなければならなかった。  医療器具の詰まったカバンを抱えて爆発地点出動すると、そこには数名の死傷者がいた。クリスマスで飾りつけられた塹壕は、たちまち戦場の処置室になった。  ある兵士は頭部に深い傷を負っていて、もはや手の施しようがなかった。それでも彼はクリスマス・パーティーをともに祝った。それが彼の最後の任務だったのだ。彼は死ぬ前に「やっと『いざ歌えいざ祝え("O du Frohliche!" 賛美歌108番)』を最後まで歌うことができたよ」と言い、それから程なくして亡くなった。  塹壕のクリスマスは厳しく悲しいことばかりだ。夜は更けてきたが、まだクリスマスの夜は続いている。そして其所此所で悲しみの光景が続いている。

 こんなエピソードもあるよ。

 兵士のひとりがアコーディオンを持っていたので、皆でその伴奏に合わせて『いざ歌えいざ祝え("O du Frohliche!")』を歌ったが、2番の歌詞を知っていたのはほんの数人だけだった。3番は誰も歌うことが出来ずに兵士達は暗い顔で押し黙ったまま、ただアコーディオンだけが鳴っていた。すると、突然離れた場所から違う言葉で3番を歌う声が聞こえてきた。振り返ると、歌声の主はボロボロの服を着たロシア軍の捕虜や街に取り残されたロシア市民達だった。

 軍医クルトはクリスマスの明けた昭和18年(1943)1月にソ連軍の捕虜となる。そして捕虜収容所で迎えた2度目の戦場のクリスマス。クルトは劣悪なキャンプで明日をも知れぬ運命の捕虜たちのたために、一枚の絵を粗末な収容所の壁に貼ったんだ。

塹壕の聖母.jpg


 ロシアの地図の裏に焚き火の炭で描かれた絵。それは幼いイエスを包み込むように抱く母マリアの絵で、次のような3つの言葉が添えられていた。

LICHT(光) LEBEN(命) LIEBE(愛)


 この絵はね、前年のクリスマスにクルトがスターリングラードの塹壕で描いたものだったんだよ。皆を慰めて日も浅い翌、昭和19年(1944)の年明け早々にクルトはチフスで帰天する。37才だった。彼自身は帰国できなかったけど、彼に励まされて生き残った捕虜の手で絵は祖国に戻り、厳しい戦後を生き抜いたドイツ人の心の灯火となった。クルトは文字通り「一粒の麦(注参照)」になったんだね。
 現在、『塹壕の聖母』や『スターリングラードの聖母』として知られているこの絵はベルリンのカイザー・ヴィウルヘルム記念教会で観ることができるよ。もしベルリンへ行く機会があったら、ぜひ観てみてね。


注: 一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる (ヨハネによる福音書12:24)。


お知らせ: 本日24日と翌25日は多忙でブログ訪問ができません^^; 26日には伺いますのでよろしくお願いします。 <(_"_)>



■賛美歌108番「いざ歌えいざ祝え」 ウィーン少年合唱団■



■クロアチアのザグレブの人々がテゼ共同体の歌を歌っています■


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重みってどこにあるかな(BlogPet)

ぼんくら雪之丞は重みがほしいな。
重みってどこにあるかな

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

B級玩具傑作選 - ブーブークッション [遊び]

ブーブークッション1.jpg 先日、笑い袋を取り上げたら『ブーブークッション』を思い出した人がたくさんいたよ♪ これってちゃんと理由があるんだ。実は笑い袋を開発した(株)アイコが、笑い袋とほぼ同じ時期に国内販売を始めて大当たりしたんだよね。だから笑い袋を面白がってた人なら、当然のようにブーブークッションも覚えていたわけだ。先日と重複しちゃうけど、最初にブームになったのは昭和45年(1970)前後だ。
 ただし笑い袋と違って、ブーブークッションは残念ながら(?)日本人の発明じゃなかった。歴史のある冗談玩具で、誕生したのはなんと昭和5年(1930)。カナダはトロントのJEM Rubber Co.が開発したものをJohn Smith Companyが売り出し、北米大陸で爆発的に売れた。正式名称は"Whoopee Cushion"だけど、競合品に付いた"Poo-poo Cushion"や"Razzberry Cushion"なんて名前でも親しまれてるよ。
 仕組みはメーカーによって多少の違いがあるけど、代表的なのは厚手のゴムを用いる単純なものだ。クッションのゴムが厚いと、中に空気を吹き込んでそのままにしておいても、外部から圧迫されない限り素材の支持力で空気は抜けきらない。それが座った際のケツ圧(?)で一気に押し出されることで、あの音が発生するというわけだ。
ブーブークッション2.jpg 流行がピークに達した頃にはガシャガシャでも売られていたけど、あれは口の付近だけは厚手だけど風船部がペラペラの安物で、勢いよく座られちゃうと音が鳴る以前に破裂して、別の意味で相手を驚かせることもあった(笑)。面白いイタズラだったんだけど、誰もが仕掛けるもんだから、そのうち、
「今どき古いんだよ!」
 なんて悪態をつかれるようになっちゃって誰もやらなくなっちゃった。それでもみんなが忘れた頃になるとまた流行るようで、流行はほぼ10年サイクルであるみたい。そういやぼんくら息子たちは、たしかこれって知らないはずだな。買って試してみようっと♪


■「BooBooトラップ」 懐かしいアイドルたちがブーブークッションの餌食に♪■


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B級玩具傑作選 - 笑い袋 [遊び]

笑い袋2.jpg 小学生の手なら握り締められる程度の袋なんだけど、これを押すと騒々しい笑い声がしばらく流れるオモチャ。昭和45年(1970)前後に流行った『笑い袋』は「だからなんだ!」を地でいく超B級玩具だった。
 なんとなくアメリカのパーティ・グッズっぽい感じなんだけど、これを世に送ったのは、昭和44年(1969)創業の(株)アイコという東京のメーカーだ。ジョーク玩具やパーティ・グッズなんかでは老舗的存在で、今でも笑い袋を販売しているよ。昭和63年(1988)までは(株)青木商会って名前だったから、そっちのほうで覚えてる人がいるかもしれないね。
 袋の中には笑い声を収録した小型プレイヤーが入っていて、スイッチを押すと一定時間、笑い声が再生されるというシンプルな作りだ。類似品はともかく、アイコの純正商品には、男、女、男女のカップルという3種類がある。ちなみに男性バージョンの笑い声は声優の肝付兼太さんが担当してるよ。
笑い袋1.jpg 今じゃすっかり忘れ去られてるけど、当時の小学生に与えたインパクトは並みじゃなかったようで、『ちびまる子ちゃん』では笑い袋が度々登場しているね。ぼんくら少年は、買う以前に友達の持っていた笑い袋で飽きちゃったんだけど、弟が福引きでこれをもらったおかげで、延々笑い声を聞かされるハメになってしまった。嬉しくもない時に笑い声を聞かされるって、ありゃ拷問だね(笑)。


■典型的な笑い袋 イライラしてる時には再生しないでね^^;■



■現代版笑い袋の『くすぐりエルモ』 これは可愛いです♪■


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