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不二家のパラソルチョコレート [食]

パラソルチョコ1.jpg フツーなら同じ種類のネタは連チャンで扱わないことにしてるんだけど、ポップキャンディを語っといて『パラソルチョコレート』を取り上げないわけにはいかないでしょ!
 不二家のパラソルチョコはポップキャンディと同じ昭和29年(1954)年に生まれた。こちらはポップキャンディのような産みの苦しみもなく、そのオシャレな形とコテコテのミルクチョコレート味で、発売早々から子供たちに受け入れられるヒット商品となった。ポップキャンディの開発に苦戦する不二家を3才年上のミルキーと共に支える存在となったって意味じゃ、ポップキャンディを語る上でパラソルチョコレートは避けて通れない話題なのだ。
 素朴な疑問として「なんでパラソルなの?」って思ったことはない? これには当時の不二家が全社的に行っていたイメージ戦略が深く関わっているんだよ。
パラソルチョコ2.jpg 不二家は何といっても洋菓子のメーカーだ。戦後間もない昭和27年(1952)の日本で「クリスマスセール」と称してケーキの大量販売を始めたり、ソフトクリームの国産第1号を世に送ったりと、不二家はハイカラでアカ抜けたイメージを世に発信し続けてきた。昭和31年(1956)にはバレンタインセールを始め、翌昭和32年(1957)には銀座数寄屋橋店にフランスキャラメルの大看板を立ち上げるなど、不二家が当時とっていた徹底した戦略線上に登場したのがパラソルチョコレートなのだ。
日傘.jpg 自分がサザエさんになったつもりで想像してみてよ。タラちゃんを連れて街へお出かけ。洋品店でウィンドウショッピングを楽しみ、洋食店でオムレツやカレーライスを食べる。今度はデパートをのんびり見て歩いて、お3時には洋菓子店で休憩。ケーキやクリームソーダをいただいて帰宅する。疲れてぐずり気味のタラちゃんの手を引きながら、もう片方の腕にはハンドバッグをぶら下げて…あれ、もうひとアイテム持ってるよ。なんだと思う? 答えは日傘だ。当時の大人の女性にとって、日傘はお出かけの必須アイテムだったのだ。つまりは、よそ行きでハイカラなイメージをパラソルに託したってことだね。
 もっとも、ぼんくら少年はハイカラだオシャレだなんてことは眼中になく、どうすればパラソルチョコの先を折らずに包みを剥がせるかということだけに夢中だったんだけど(笑)。だってフツーに包みを剥いちゃうと、必ずっていっていいほどチョコの先端部が折れて、包みの中に残っちゃうんだもの。あれは死活問題だった。なんとか手でほじくり出した暁には、手も口の周りも薄汚くチョコまみれになっちゃって、オシャレもへったくれもあったもんじゃなかった^^;


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不二家のポップキャンディ [食]

ポップキャンディ1959年.jpg 先日紹介したサクマ&サクマ式ドロップスは昭和の全世代に愛されたアメだったけど、戦後の昭和世代にとって忘れられないアメといったら、先ず間違いなく不二家の『ポップキャンディ』だろう。
 ポップキャンディは昭和29年(1954)年に誕生した。50年以上の歴史があったなんて、ちょっと意外な気もするね。
 ラップを剥がすと、紙棒の先に付いた丸く平べったいキャンディが顔を出す。表面にはペコちゃんやポコちゃんの顔が浮き上がっていて、舐めるとその部分が少しザラザラした感触があったでしょ♪ しばらく口に突っ込んで凸凹感がなくなったころに口から出してみると、今度はキャンディの向こうが透けてみえるぐらいに薄くなってるんだ。そしてキャンディが紙棒から外れると、残りはガリガリと噛み砕く。これがぼんくら少年の楽しみ方だった。初めっからガシガシと歯を立てる気の短いのもいれば、最後の最後まで口の中で溶かすのんびり派までタイプもいろいろで、食べ方を見れば友達の気質がよく分かって面白かったなぁ!
ポップキャンディ1970年.jpg 先の「紙棒」という記述に違和感を感じた人がいるかもしれないね。実はポップキャンディの製造に際して不二家が最も苦心したのは、棒の部分だったのだ。
 発売当初はプラスチック製だった棒を紙製に切り替えたのは、子供たちの安全を考えてのことだった。棒付きキャンディは口に咥えたまま転倒したりすると、棒が凶器となる恐れがあり、力が加わった時にカンタンに折れたり曲がったりする紙棒はリスクを回避する最もベストな方法だったのだ。
 でも、当時の技術で紙スティックを作るのは容易じゃなかった。最新鋭の機械を輸入して技術者も招き万全の体制で製造に臨んだのに、機械は故障するわ、不良品は大量に出るわの大苦戦。紙と糊はとても繊細な材料で、海外で作られた機械では日本の気温や湿度での調整が思いのほか難しかったのだ。結局は何年もの時間と労力をかけて国産の紙スティック製造機を開発し、9年後の昭和38年(1963)年になってようやく紙棒による本格的な生産をスタートさせることができた。
ポップキャンディ1982年.jpg ところで、キャンディのカッティングや型抜き、仕上げなどをオートメーション化して大量生産できるようになったのは昭和50年(1975)以降。それ以前は、棒を刺す工程も包装もすべて手作業だったんだよ。
 昭和57年(1982)に楕円形に形を変えた以外は、ボクらがペロペロ舐めていた頃と何も変わっていないポップキャンディ。たまには思い出してペロペロしてみたら? あ、咥える時はヨダレに気を付けてね(笑)

関連記事: ペコちゃんとポコちゃんの秘密を探る


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「バタンキュー」って何よ? [その他]

バタンキュー1.jpg 今朝の名古屋は快晴だった。さわやかな外気に触れながらベランダで洗濯物を干していたら、介護施設で働いている愛妻ぼんくらオバンが夜勤を終えて帰ってきた。
「あー、疲れたぁ! 入居者さんが転倒しちゃって救急搬送する騒ぎがあってさぁ、全然休憩できなかったよ。もう今朝はバタンキュー」
 失業中のぼんくらオヤジに代わって家計を支えてくれているぼんくらオバンの労をねぎらいながらも、『バタンキュー』という言葉がグルグルと頭の中を回りだした。昭和世代なら知らない人はいないフレーズなんだけど、一体、いつ、誰が流行らせたんだろう?
 意味から考えても、これが『バタン』と『キュー』、つまり疲労のあまりバタンと倒れてキューと動けなくなるって要素分解ができるんだけど、だから何だよ(怒)←誰に怒ってんの^^;
 とゆーワケで調べてみたんだけど、惨敗でしたっ! いくつかの説はあるんだけど、決定打がないんだよね。もし「知ってるよ」って人がいたら教えてね。せっかくだし、ヒントになるかもしれないから、最有力候補を紹介するね。
 ぼんくらオヤジもこれじゃないかと思ってるのが「エンタツ・アチャコ起源説」だ。「教えて!goo」に寄せられた質問に対する回答で(出典:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa62496.html)

横山エンタツ-花菱アチャコ(上方漫才)の戦後の映画で金の無い復員姿の役を演じたとき使ったギャグです。(復員:敗戦時の引揚兵)その当時闇市で安くカストリ(密造焼酎)を飲ませていた店には、工業用の淡いピンク色のメチールアルコールを混ぜた粗悪品があって知らずに呑んで死んだ人の新聞記事が連日のように出た時代がありました。~で、彼らのギャグでは、カストリを飲むと「バタン-キュー」とイカレテ死んでしまうものと、うまく生き延びた方はシャックリをするたびに首が横に傾げるというもので、エンタツの首のギャグは当時の悪餓鬼どもの間で大流行したものです。・・・ですからバタンキューを、特に[カタカナ]で表現すると言うものでもないのですが、際立たせたくもなるでしょう。

バタンキュー2.jpg というものだ。なるほど~、偽カストリを飲んで死んでしまう様子という説明も、当時の子供たちがこの映画を真似て遊んでいた様子も説得力がある。ただ残念なことに肝心の映画が特定できない。エンタツ・アチャコの映画リストであたりをつけようと思ったんだけど、タイトルや制作年からは何の手がかりも得ることができなかった。もしこの辺に詳しい人がいたらヒントでもいいから教えて! 
 この説以外は個人の憶測にすぎず、ここに挙げるまでもないものばかりだ。
 辞書では意味の説明に終始していて、例えば広辞苑では、バタンは「倒れる音」で、キューは「圧迫されたり責め立てられたりして発する苦しみの声」、バタンキューは「寝床に入って直ぐに眠り込むこと」と記されているだけで、出所についての記述はない。
 面白いのが、九州工業大学の村田忠男教授が『月刊言語(2001年8月号)』に寄せた『笛はなぜ「ひゃらぴー」と鳴らないのか』で、バタンキューをオノマトペ(擬態・擬声・擬音語)の観点から解いている次の下りだ。

バタンキュー3.jpgばたんきゅう」の場合には、「ばたん→きゅう」と「時間」の優越性でそれぞれの要素の順序が決定したものと解釈され、同種の例としては「すってんころり」「どんぴしゃり」「ぴかどん」などが挙げられますが、日本語でも意味条件に「時間」の要素の有るオノマトペ例は少なく英語には一例もないそうです。

 日本語は2000を超えるオノマトペを有する味わい豊かな言語だ。その日本で生まれた『バタンキュー』は、昭和の生み出したオノマトペの傑作なんじゃないだろうか。これを平成生まれにバカにされたからといって自重したり、自ら死語だと葬り去るのはモッタイないかもよ。


■エンタツ・アチャコの至芸をどうぞ♪■



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誕生しなかった(BlogPet)

きょうは、誕生しなかった。

*このエントリは、ブログペットの「ぼんくら雪之丞」が書きました。

セルロイドの臭い、覚えてる? [テクノロジー]

セルロイド1.jpg ぼんくら少年は一度、火事を起こしかけたことがある。夏祭りで買ったアトムのお面に蚊取り線香の火が点いて燃え上がったのだ。特異な臭いに気付いた時にはお面から真っ黒なススを伴った赤黒い火が立ち上っていて、庭に出そうと慌てて持ち上げたら溶けた滴がポタポタと床に落ちて、そこからもゆらゆらと火が! 半泣きで両親を呼びながら、どうにかお面は庭に捨てることができたけど、ハードワックスで手入れされた床に点いた火はジワジワと燃え広がっていた。
 直ぐに母が飛んできて、ソファのクッションで床の火を叩き消してくれたので最悪の事態は避けられたけど、我に返ってみれば腕や足にも溶けたものが張り付いてしまっていて、剥がすと皮膚が真っ赤にタダレていた。その時に負った火傷の跡は、40年以上経った今でも左足のくるぶしにケロイドとなって残っている。
 問題のお面はセルロイド製だった。1970年代の始め頃まで、セルロイドはオモチャや文具、眼鏡など、あらゆるものに使われていた合成樹脂で、ニトロセルロースと樟脳などを混ぜて作ることの出来る人類最古の人工樹脂でもある。イギリス人のアレキサンダー・パークスによって安政3年(1856)に発明されたというんだから、確かに古いよね。
セルロイド4.jpg セルロイドという名称は明治3年(1870)にアメリカの製造会社が商標として登録したもので、正式には硝酸セルロースという。当初は何に使われていたか分かる? 写真のフィルムだよ。それまではガラスに感光剤を塗った乾板が使われていたんだけど、セルロイドのおかげで軽くて場所を取らないフィルムが誕生し、後の写真と映画の飛躍的な発展に繋がっていくんだ。ちなみにアニメの「セル画」という用語は、セルロイド板にアニメを描いていた頃の名残なんだよ。
セルロイド3.jpg 美しい発色性と加工がし易いことから、その後は万年筆や眼鏡や服のカラー(襟)、オモチャ等々、ありとあらゆる日用品に利用されていた。ただ、ぼんくら少年が身をもって経験したように極めて燃えやすく、アセテートやポリエチレンが登場すると、アッという間に身の回りから姿を消してしまった。現在ではピンポン球やペンのボディに細々と使われているだけだ。お面を付けた時に嗅いだあの独特の臭いは忘れてないけどね。


■今でもセルロイドの人形を作っている職人さんのお話■



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『サクマ式ドロップス』と『サクマドロップス』 [食]

 平べったい缶カラのまん丸いフタを爪の先かマイナスドライバでこじ開け、穴を下にして振ると、カラカラと小気味のいい音を立ててカラフルなドロップが手のひらにこぼれ落ちてくる。デパートやスーパー、駅の売店、そして駄菓子屋でさえ置いていたドロップ缶のことは知ってるよね?
 じゃあ質問! 缶もドロップも見た目は変わらないのに『サクマ式ドロップス』と『サクマドロップス』がある(写真参照)んだけど、どーしてだ? 答えは意外だよ。メーカーが違うんだ。品名に「式」があるかないかぐらいで、後はほとんど違いはないのにね。
サクマ式ドロップス.jpg サクマ式ドロップスは池袋に本社を置き、八王子に工場を持つ佐久間製菓株式会社が昭和33年(1958)から製造・販売を行っている。ちなみにキャンディの定番商品『キャンロップ』は佐久間製菓の商品だ。
サクマドロップス.jpg もう一方のサクマドロップスのメーカーはサクマ製菓株式会社といって、本社は目黒に、工場は長野県佐久市にある。サクマドロップスはサクマ式ドロップスより10年早い昭和23年(1948)から製造を開始している。サクマ製菓は『チャオ』や『いちごみるく』のメーカーとしても知られている。
 元々、双方のドロップの原型になったのは明治41年(1908)創業の佐久間惣次郎商店の『サクマ式ドロップス』だった。このドロップは、従来の飴には用いられなかったクエン酸を加えたことで、夏でも溶けず、見た目に透明感があったため、大正2年(1913)に発売された直後から大ヒット商品となった。この成功によって大正9年(1920)には、株式会社となって社名を佐久間製菓株式会社と改め、昭和2年(1927)にはチョコレートの製造にも進出したんだけど、やがて経営に行き詰まり、幾度かの浮沈を経ながら、結局は太平洋戦争中の企業整備令によって廃業に追い込まれてしまう。
 こうして戦時中に途絶えた看板だったけど、戦後間もない昭和22年(1947)に旧会社の社長を務めた一族によってサクマ製菓株式会社が、翌昭和23年(1948)には旧会社の大番頭であった横倉信之助によって佐久間製菓株式会社が設立された。サイトの会社沿革を見る限り、旧会社を「復興」したことになっているのは現佐久間製菓のようだ。だからサクマ式ドロップスの名で商品を出しているってワケだね。
旧サクマ式ドロップス.jpg 昭和63年(1988)に映画化された野坂昭如原作の『火垂るの墓』で、節子が大切にしていた唯一のお菓子がサクマ式ドロップスだったことに気付いた人もいるだろう。戦前・戦中の昭和を生きた子供たちにとってサクマ式ドロップスはかけがえのない宝物だったのであり、戦後の昭和生まれには、サクマ式&サクマドロップスが日々の暮らしに甘い彩りを添えてくれていた。ボクらも時々は缶を振ってドロップの音を聞きながら、平成生まれの子供たちと一緒に、缶を胸に抱いて戦禍に消えていった子供たちのことを思い起こそうね。


■火垂るの墓 予告編 1988年 サクマ式ドロップスが象徴的な存在として登場します■



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『メンソレータム』と『メンターム』 [その他]

メンソレータム1.jpg ぼんくらオヤジは、子供の頃から『メンソレータム』を愛用している。正確に言うと、今では『メンターム』の愛用者なんだけどね。
 外で遊んでいる時間が長かったからか、夏は日焼けや汗疹に、冬場はしもやけやあかぎれ、リップクリームにと大活躍だった。髭を剃るようになってからは剃った後のスキンケアに毎日、使っている。もっと気の利いたローションはたくさん出てるんだけど、こういうことは保守的というか何というか(笑)
 メンソレータムの主成分はメンソールとペトロレータム(ワセリン)。実にシンプルな薬品だ。名前の由来も成分名を切り貼りしたもので、これまた分かりやすい。アメリカのメンソレータム社が明治27年(1894)に開発し、メンソレータム社や同社とライセンス契約を結んだ会社が製造・販売していた塗り薬の商標だったんだけど、昭和50年(1975)にロート製薬がメンソレータムの製造・販売権を取得し、さらに昭和63年(1988)にメンソレータム社を買収して親会社となった結果、商標と経営権もロート製薬のものになった。
「あれぇ、じゃあメンソレータムってロート製薬が国内生産を始める前はアメリカで作っていたものを輸入してたの?」
 そう思うかもしれないけど、そうじゃないよ。昭和49年(1974)までは近江八幡に本社のある近江兄弟社が作っていたんだ。
 近江兄弟社は、お茶の水の「山の上ホテル」の設計をしたことでも知られるアメリカ人建築家で実業家のウィリアム・メレル・ヴォーリズによって、大正9年(1920)に「近江セールズ株式会社」としてスタートした。近江兄弟が創業者って思う人がいてもムリはないんだけど、社名は地名の近江と「人類皆兄弟」の精神によるものだ。
 ヴォーリズが熱心なプロテスタントのクリスチャンだったこともあって、同社の活動と経営理念は実にユニークだ。企業理念にしてからが驚きで "Operations on Mission Industry"。資本主義社会では当たり前の「利潤追求」ではなく「信仰と事業の両立」をどう実践していくのかが至上命題の会社なのだ。皮膚薬の老舗として堅実な利益をあげながら、病院、老人保健施設、学校などを経営しているのはそのためだ。
 でも、こうした経営がラクに行えるはずもなく、必死の努力も空しく昭和49年(1974)には倒産。創業以来、同社の基軸だったメンソレータムの製造・販売権を返上せざるを得なかった。その後、大鵬薬品工業の資本参加などで再興を成し遂げたんだけど、時既に遅しでメンソレータムの商標はロート製薬のものになってしまっていた。そこでメンソレータムの製造設備を利用し、処方が多少違っているだけで主原料や効能はほとんど変わらない「メンターム」を製造販売して現在に至っている。
メンソレータム2.jpg マスコットが「リトルナース」のメンソレータムと「メンタームキッド」のメンターム。双子と言ってもいい商品だけど、ぼんくらオヤジは現在、メンタームを使っている。利潤追求を宿命としない企業があってもいいと思うし、そうした企業が存立できるかどうかは宿命や原理などによるものではなく、消費者の意識と支援の有無によっていると思うからだ。今や宗教のように信奉されている自由主義経済へのバカな抵抗さっ。


■近江兄弟社ってこんな会社です♪■



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母のアイテム - 裁縫箱 [その他]

裁縫箱.jpg 子供の頃って、意味もなくいじりたい道具や機械があるでしょ? ぼんくら少年は人一倍、好奇心が強かったので、こうしたものは身の回りにワンサとあった。父の持ち物は言うまでもなく、母が日々使っている道具の中にさえ息子の餌食になるものがいくつかあったのだ。
 そのひとつが『裁縫箱』だ。それも今のようなバスケット型のものではなく、今ならさしずめ民芸家具を思わせる和風の小物入れで、普段は押し入れの中にしまってあった。
裁縫箱2.jpg 何といっても子供心をそそったのはズラリと並んだ小引き出しだ。引き出しを開けると、ボタンやスナップ、糸、ゴムひも、針、ピン、待針、指ぬき、丸刃ルレット、S目打、アイロン定規、三角チャコやチャコペン、糸切りはさみ、かけはり、絎け台、メジャー、ひも通し、糸通し、へら、リッパー、布切り鋏といった細かいアイテムが次々に顔を出す。針と糸以外は、何に使うのかも皆目見当のつかないものばかりだったけど、カラフルで様々な形状の道具は見ているだけで楽しかった。
裁縫箱4.jpg 特に箱の天辺は天板の半分が二つ折りに開いて、開かないほうの奥に隠れるように引き出しがついていたりして、とてもワクワクする部分だった。別に特別なものが入ってるわけじゃなかったけどね。
 一度、この「秘密の引き出し」点数が異様に悪かったテストの答案を丸めて隠したことがあったんだけど、その日の晩には見つかって大目玉をくらったことがある。当時は何で見つかっちゃったんだろうと不思議に思ったけど、バカもいいところだよね^^;
 おばあちゃん(母の母)の形見だからと大切にしていたはずだったんだけど、現在の隠居場に越した時には既に姿が見えなくなっていた。訊いたら、叔母に譲ったとのこと。そういえば、ぼんくら少年が中学生の頃には、裁縫箱は今風のバスケットになっていたっけ。いつ姿を消したのかも気が付かずにいたくせに、突然思い出して懐かしがるなんて、我ながら呆れたもんだ。


■裁縫箱に興味を持つネコ ぼんくら少年と変わらないことをしてます^^;■


■裁縫とネコ やっぱりぼんくら少年が母にしたのと同じちょっかいを出してます^^;■


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タグ:裁縫箱
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サントリーホワイトとサミー・デイビス・Jr. [テレビ]

サントリーホワイト1.jpg ぼんくら少年が中学生の時にウケた一芸がある。『サントリー・ホワイト』のCMに出演していたサミー・デイビス・Jr.の物真似だ。別に自分で上手いと思っていたワケじゃないんだけど、何故だか周囲にバカ受けしちゃったのだ。学校ではみんなが貸してくれた消しゴムを給食の牛乳に放り込んで飲むという不衛生極まりないパフォーマンスだったし、準備の余裕がある時は麦茶に角砂糖をしこたま入れて、最後に「ウ~ん、サトゥイリ~」なんてオヤジギャグを飛ばす他愛もないものだったのに^^;。
 学校の休み時間ならまだしも、商工会のお祭りの時に友達の家がやってた酒屋の前でやる悪乗り振りで、その時は1日5回の出演で5,000円のギャラを稼ぐことができた(笑)。怖くなるぐらいの人だかりができたし、それなりに笑ってもらえたし、何よりも用意してあった特製タンブラー付きのサントリーホワイト120セットを3回目の出演時に完売したのが嬉しかったなぁ!
サントリーホワイト.jpg 昭和48年(1973)に流されたサミー・デイビス・Jr.のCM("Get with It"って名前があるんだよ)はカンヌ国際広告祭でグランプリを受賞した日本のCM史上でも金字塔的な作品だ。サントリーホワイトは、昭和4年(1929)に国産ウイスキー第1号として発売された押しも押されぬサントリーの定番商品なだけに、CM制作への力の入れようも尋常ではなかった。どんだけ資金と労力を投入していたかはサミーに続くキャスティングを見れば分かる。ロン・カーターとハービー・ハンコック、エルス・マルサリスとブランフォード・マルサリス親子、クラーク・テリーとジョン・ファディス、スティーヴ・ガッド、リチャード・ティー、コーネル・デュプリー、エディ・ゴメスらによるザ・ガッド・ギャング、レイ・チャールズなどなど、信じられないような一流ジャズメンがリレーで出演していたのだ。昭和生まれがウイスキーと聞くと即、ジャズを連想するようになったのは、サントリーホワイトの影響かもしれない(笑)。


■サントリーホワイト サミー・デイビス・Jr. 1973年■



■サントリーホワイト レイ・チャールズ 1989年■


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針金鉄砲とゴム銃の世界 [遊び]

針金鉄砲1.jpg 以前、学校の周辺にいろいろな人々が出没していた話(記事はこちら)を書いたことがあったけど、路上で売られていた怪しげな商品の中で、ぼんくら少年にはどうしても買えなかったものがあった。輪ゴムを飛ばす『針金鉄砲』だ。
 なぜ買えなかったかというと、とても高かったからだ。たしかぼんくら少年が小学校の中学年だった昭和40年代の中頃で、500円から1,000円の間ぐらいだったと思う。サイズや形状で値段がいろいろだったのだ。針金とスプリングだけで出来た素朴なオモチャだけど、製作の手間は結構かかったんじゃないだろうか。だから、ぼったくり価格とまではいえないスレスレの価格設定だったと思う。もっとも材料代は知れたものだから粗利は相当なものだったろうけど(笑)
針金鉄砲3.jpg 針金鉄砲がいつ、誰の手によって誕生したのかは分からないんだけど、少なくとも明治時代の末には現在と変わらぬ形状の針金鉄砲のあったことが分かっている。当時は輪ゴムがなかったので、細い笹竹を輪切りにしたものを玉にして飛ばしていたらしい。そんなものが飛ぶのかなぁ? 輪ゴムの国内生産が始まった大正12年(1923)以降は早速、輪ゴムが玉として使われるようになり、造作も打つ度に輪ゴムを引っかけるシンプルなものだけじゃなく、複数の輪ゴムがセットできる連射式が早々と登場している。
針金鉄砲2.jpg 飛距離は2~3メートルがいいところだし、銃になったから命中精度が高いかというと指鉄砲と大差ない。指鉄砲に比べると輪ゴムを引っ張る力が強かったので当たると結構、痛かったけどね。それでも欲しかった理由はただひとつ。カッコよかったのだ。同じ機能の銃は割り箸と輪ゴムがあれば作れたけど、針金とスプリングのスケルトンは大金をはたいてでも欲しいと思うメカニックな魅力を放っていた。
 余談だけど、大人になってもゴム鉄砲の魅力が忘れられない人たちって多いんだね。日本ゴム銃射撃協会という素晴らしい団体があるんだよ。サイトはこちら。針金鉄砲に始まるゴム鉄砲がどれだけ進化したかに関心のある人なら飛ぶ価値があるよ!


■脅威のゴム・マシンガン なんと288連発!■



■日本ゴム銃射撃協会のお話 和製ゴム銃の今がみえます♪■


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