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「う~ん、マンダム」 [ファッション]

マンダム.jpg「う~ん、マンダム」
 こう呟きながらアゴを突き出して撫でてみせるあまりにも有名なチャールズ・ブロンソンのCMだけど、これが流れたのはいつ?
 答えは万博の年、昭和45年(1970)だ。資生堂の『MG5』で男性化粧品のシェアを奪われた丹頂株式会社(現株式会社マンダム)が起死回生を期して世に送った『マンダム』シリーズのCMだ。まだ化粧品が男のイメージとすんなり結び付く時代ではなく、「男臭さ」をことさらに強調する中に「化粧品は男らしさを磨くアイテム」というコンセプトをさりげなく滑り込ませている。これが、高度経済成長が一段落し、容姿を気にする余裕の出てきた成人男性のニーズを刺激した結果、マンダム・シリーズは爆発的なヒットを記録。倒産寸前に追い込まれていた丹頂は一気に業績を回復し、昭和47年(1972)には社名を現在のマンダムに変更することになる。
 ところでこのCMの制作ディレクターって誰だか分かる? なんと『転校生』や『時をかける少女』でお馴染みの大林宣彦監督なんだよ! 当時駆け出しのCMディレクターだった大林監督は、この大ヒットを皮切りにソフィア・ローレンの『ホンダ・ロードパル』やカトリーヌ・ドヌーヴの『ラックス化粧品』、リンゴ・スターの『レナウン・シンプルライフ』等々、海外スターを起用したCMで次々にヒットを飛ばしていく。
 ロケ地はアリゾナの砂丘とハリウッドだった。ブロンソンは自身のキャラクターが男臭さのシンボルとなることを知って、
チャールズ・ブロンソン.jpg「これは私の初主演映画だ」
 とまで言って非常に喜んだそうな。リトアニア移民の子として大変な苦労を重ね、第二次大戦中にはB-29の射撃手として東京大空襲にも出撃した過去を持つブロンソンは、日本に対して特別な気持ちを抱いていたようだ。灼熱地獄の荒野で何度も馬で駆け、頭から泥水を被る過酷なCM撮影に際しても、彼は大スターとは思えない控えめな態度と温かい気配りでスタッフを感激させたそうだ。このCMがボクらを惹きつけたのは、ブロンソンが男を演じたからなんじゃなく、真の男を地で見せてくれたからなのかも。


■チャールズ・ブロンソン 『マンダム』CM 1970年■



■ジェリー・ウォレス 『男の世界 Lovers of The World』 1970年■



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伝書鳩 [その他]

伝書鳩1.jpg ぼんくら少年はお隣の和ちゃんと遊ぶのが大好きだった。和ちゃんというと同級生みたいだけど、6才も年上のお兄さんだ。ぼんくら少年の部屋は和ちゃんの家の側にあったんだけど、夕方になると窓の外が急に騒々しくなるんだよね。木枠がガタガタする音に混じって、何かがカサコソとうごめくような気配とクゥクゥという鳴き声、そして和ちゃんが誰かに話しかける声が聞こえてくるんだ。
 ガラガラと窓を開けると、隣家の屋根に設えた奇妙な形の小屋で和ちゃんが甲斐甲斐しく鳩の世話をしているのが見える。
「お帰り!」
 と声をかけると、たいていは挨拶抜きで、
「手伝って!」
 という指令が返ってくる。飛んで行って立てかけたはしごを上り下りしながらバケツで水や餌を運び上げるのが任務だった。随分と危ない役目を仰せつかったものだけど、ぼんくら少年は嬉々として手伝った。それというのも、手伝うと後で鳩と遊ばせてもらうことができたからだ。
 粗製乱造の鳩小屋は糞の匂いが染み付き、床がしなって怖かったけど、数十羽の鳩がケージの中で立てる音とくぐもった声は何ともいえない心地よさを与えてくれた。そこで和ちゃんは、実際に鳩の掴み方を教えてくれたり、飼い方や訓練法を熱心に話してくれた。ほとんどは忘れちゃったけど^^; 不思議で仕方がなかったのは、和ちゃんが鳩の一羽一羽に名前をつけていて、ちゃんと区別ができたことだ。時折、訓練で飛び立たせた鳩が返ってこないことがあると、ポロポロと涙をこぼしながら、その鳩がどんなに可愛かったか、レースでどんな活躍をしたのかを延々と語り続ける心優しい少年だった。
伝書鳩3.jpg 1000キロ以上も離れたところから巣に戻ることができるといわれる能力を借りる伝書鳩は、古くは紀元前5000年にまで歴史を遡ることができるほど人との関わりが深い。日本では、特に昭和39年(1964)の東京オリンピックで、開会式に放鳩を行ったことから若者の間でブームになり、昭和44年(1969)には年間脚環登録羽数が400万羽弱に達してピークを迎える。その後は徐々に減少し、最近では鳩レースでの平均期間率が劇的に減少するという奇怪な現象が追い打ちをかけている。数千羽規模のレースに参加した鳩が全滅する事態が各地で頻発し、しかも原因が分からないというのだから恐ろしい。
 これは日本に特有の現象で、海外では発生していないというのだから謎は深まるばかりだ。猛禽類の大増殖説やケータイの電磁波影響説、スピード偏重の品種改良による悪影響説などが挙げられているけど、どれも推測の域を出ていない。一体、何が起きているんだろうね。
伝書鳩2.jpg 何にしても住宅地で鳩小屋を見かけるなんてことは終ぞ無くなってしまった。いい年のオジサンになっちゃった和ちゃんも、同じく伝書鳩マニアだったお父さんの死後、鳩の世界から手を引いてしまった。でも、ぼんくらオヤジは、包み込むように掴んだ時の鳩のぬくもりと、それを空に放ったときの突き抜けるような爽快感は未だに忘れられない。青空に吸い込まれるように消えていく鳩は、間違いなく平和の使者だった。


■伝書鳩の訓練 6才の子供たちがやってます。可愛いな♪■



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独創的な『マンボ菓子』 [食]

マンボ菓子1.jpg 駄菓子屋でよく食べたんだけど名前が分からないお菓子ってよくあるよね。ぼんくら少年は駄菓子屋に入り浸っていたのでこういうのがいっぱいあるんだけど、中でもいちばん気になっていたのが、ラムネのようなそうでないようなものが詰まったポリエチレン製のチューブだ。チューブは柔らかいので、前歯で挟んで引っ張れば中味がしごき出されて口に入る。この食べ方も奇妙なんだけど、お菓子本体も独創的な食感だ。ラムネによく似た味わいなんだけど、粉でも個体でもない噛むとニチャっとした個体で、口の中では、やっぱりラムネのようにさぁっと溶ける。食べたことある?
 このお菓子、名を『マンボ菓子』という。かつては各地で作られていたようだけど、今やメーカーは名古屋で2軒を残すのみ。いつどこで誕生したのかは分からないが、発祥の地は恐らく東京で、少なくとも名古屋では昭和30年代の後半から生産が始まったことが分かっている。
 マンボ菓子の名前の由来も、はっきりしたことは分かっていない。『マンボNO.5』から採ったっていう説が有力なんだけど、他にもマンボズボンが由来じゃないかとか、田んぼに埋設した灌漑用の筒をマンボーと呼ぶところから名が付いた等々、諸説あってもはや特定は不可能だ。
 謎の中味の正体は、コーンスターチ(当初はデンプン)にブドウ糖を混ぜるたものが主成分という点ではラムネと同じといっていい。違っているのはクエン酸を加えないのと、つなぎにゼラチンを使用していることだ。これがあの独特の食感を与えていたのだ。
 必然的に口に入ることになるチューブも自家製だ。環境ホルモンで悪評高い塩ビポリマーなどの有害物質は一切使っていない。7色のチューブにお菓子をコンプレッサーで注入して、水槽で冷やしてから切断する。ちなみに機械だと刃先が熱を持って切断面がくっついてしまうため、今でも包丁で切っているそうだ。駄菓子って、未だにこういう手作り感覚があって楽しいよね。
マンボ菓子2.jpg 以前はバラ売りで買えたマンボ菓子だけど、現在では衛生上の問題から小分けの袋詰めで販売されている。一時期は廃れかけたものの、近頃では大手スーパーやコンビニが駄菓子販売に力を入れるようになってきたおかげで、製菓会社も廃業の危機を脱したという。マンボ菓子のような個性的な駄菓子は、時を超えて愛されて続けて欲しいよね。


■ペレス・プラード楽団 『マンボ No.5』 1952年■



■笠置シヅ子 『エッサッサ・マンボ』 1955年■



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ロバートブラウンとハーブ・アルパート [音楽]

ロバートブラウン.jpg 子供とお酒は縁遠い存在だし、縁があっちゃいけない存在だ。でも、たったひとつ、日常でご縁があった。CMだ。アンクル・トリスや黄桜のカッパ、リー・ヴァン・クリーフのサントリー・オールド等々、世代によって印象深いCMは違うだろうが、今回はキリンの『ロバートブラウン』を思い出してみたい。
 ロバートブラウンは、複数の原酒をブレンドすることで低価格化と上質の味わいを両立させようとしたウイスキーで、キリン・ディスティラリーが昭和49年(1974)に発売を始めた。この製法については賛否が分かれたものの、豊かな樽熟香とモルト由来の香ばしさの調和したスコッチを想わせるまろやかな味わいが支持され、日本の代表的なウイスキーのひとつとして現在も愛飲されている。
 そしてロバートブラウンのCMに昭和55年(1980)から昭和61年(1986)まで連続して採用されたのがハーブ・アルパートのナンバーだ。
ハーブ・アルパート1.jpg ハーブ・アルパートはロサンゼルス出身のポップ系ジャズ・トランペッター。またカーペンターズやセルジオ・メンデス、ジャネット・ジャクソンなどを世に送った有能なプロデューサーでもあり、A&Mレコードの創始者の一人としてよく知られている(A&MのAはAlpertのこと)。この手の音楽にあまり関心がない人でも、オールナイトニッポンのテーマソング『ビター・スウィート・サンバ』が彼の曲だといったら「あれかぁ!」と思ってくれるだろう。
 日本ではもっぱらCMに起用された曲のアルバムがヒットしていて、昭和54年(1979)にマツダ・サバンナRX-7のCMで使われた"Rise"を皮切りに、以降はロバートブラウンのCMで"Beyond"、 "Magic man" 、"Fandango"、 "Route 101"、"Red Hot"、 "Catch Me" が年に1回のペースでヒットを続けていく。
 メキシコ音楽とジャズを融合させた『アメリアッチ』という独創的なリズムを確立するなど、コンポーザーとしてもアレンジャーとしても成功を収めた彼のサウンドには、ジャズやラテン、ロックなどのジャンルをいとも軽々と乗り越えていく爽快さがある。原酒のブレンドという掟破りの製法であっさりと大衆の支持を得たロバートブラウンのCMに相応しいミュージシャンだったのだ。


■ロバートブラウンのCM ハーブ・アルパート自身が出演してます♪ 1982年■



■ハーブ・アルパート "Rise" 1979年■



■ハーブ・アルパート&ティファナ・ブラス "Bittersweet Samba" 1965年■



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さらば日本航空! [社会現象]

 日本航空が危ない。パンナムやスイス・エアと一緒に消えちゃうんだろうか。何故こんなことになってしまったのかは他のブログに譲ることにして、ここでは昭和の少年少女にとって日航がどんな存在だったのかを思い出してみない?
jal3.jpg 何よりも「憧れ」だったよね。当時の日本で唯一、国際便を運行していたからかな。それとも文字通りの親方日の丸の特殊会社で圧倒的な強さを誇っていたからだろうか。たぶん両方なんだろうけど、例えば日航が搭乗客へのプレゼントで作っていたエアライン・バッグは、昭和30~40年代の少年少女にとってはある種のステイタス・シンボルだった。飛行機に乗ったことの証だったし、家庭が飛行機に乗れるだけの財力を持ってたってことでもあったからね。そうでなきゃ、商店街のガラガラで海外旅行が当たったか(笑)。
jal2.jpg じゃあ、ぼんくら少年のような庶民の子供たちはどうしてたかっていうと、日航の鶴丸をあしらったブリキの旅客機や空港内の連絡バスのオモチャで心の飢えをしのいでいた。小学校の高学年になると、ブリキのおもちゃは精巧なプラモデルに代わったけどね。でも万博を境に、夏休みや冬休みにハワイやグアムに家族旅行に出かける友達がぽつりぽつりと出始めて、少しずつだったけど、海外旅行や飛行機が身近な存在になってきた。日本に経済力がついてきたこともあったけど、何よりも1ドルが308円に切り上げられた昭和46年(1971)のスミソニアン体制と、昭和48年(1973)の変動相場制への移行で円が強くなっていったことが最大の要因だ。
jal1.gif パイロットやスチュワーデスが将来なりたい職業の上位を占めたのもこの頃だった。昭和58年(1983)から放送された『スチュワーデス物語』はモロに日航の訓練生を描いていて、航空関係の職業が花形で、しかもその中でも日航がダントツの人気だったことを物語っている。そういえばタモリのオールナイトニッポンで、スチュワーデスの採用基準を「頭で採る日航。顔で採る全日空。力で採る東亜」なんて紹介してたことがあったけど、それだけ日航の社員がエリート視されていたことが分かるよね。かなり失礼な言い様だけど^^;
jal5.jpg 昭和34年(1959)に採用された鶴丸(鶴と日の丸を掛け合わせたマーク)がJALの機体から完全に消滅したのが昨年のこと。平成生まれのぼんくら息子たちにはJALと言えば通じるけど、日本航空、まして日航なんて言ってもキョトンとしているし。もしかすると、経営破綻を来す前に、日本航空は既に過去のものになっているのかもしれない。


■日本航空のCMメドレー 1971年■


■スチュワーデス物語 エンディング 1983年■


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エレベーターガールの思い出 [その他]

エレベーターガール1.jpg ぼんくら少年は京王沿線に住んでいたので新宿は行動圏内だった。とくに京王や小田急などのデパートは格好の遊び場で、何をするでもなく各フロアをうろつき回っていた。おもちゃ売り場でディスプレイをいじったり、屋上の遊具で遊んだり、地下の食品売り場で味見用のお菓子や総菜を食べたり、また屋上に戻って売り物のペットを眺めたりと、さながらテーマパークのような存在だった。冬はポカポカ、夏はエアコンがギンギンに効いているのも有難かったしね。
 でも、ぼんくら少年には、5年生の春頃から新宿に出かける理由がもうひとつ増えていた。デパートのエレベーターガールにほのかな恋心を抱いたのだ。身長は160センチそこそこで、美人というよりはまだまだあどけない顔立ちの可愛いお姉さんだった。週に一度は顔を合わせていたし、ぼんくら少年が遠慮会釈もなくジロジロと見つめるものだから、いつしかお喋りをする間柄にもなっていた。
 前田さん、という苗字だった。名札にそう書いてあったから。前田さんは他のお客さんがいる時は、
「上に参りまぁ~す♪ ご利用階数をお知らせくださいませぇ~」
 と、天井に片手を上げながら、文字にできない独特のイントネーションで喋るくせに、客がぼんくら少年たちだけになると片手で敬礼しながら、
「おっす! 元気?」
エレベーターガール2.jpg なんてタメ口で相手になってくれた。時々、制服の胸ポケットからのど飴を引っ張り出してみんなに手渡してくれたし。貰って直ぐに頬張ると、飴玉が前田さんの体温でほんのり温まっているのが分かって胸がドキドキした記憶がある。
「美味しい?」
 そんな時にのぞき込まれる様に聞かれると、耳の先まで熱くなるのが分かって無言でこくりと頷くのが精一杯だった。
 そんな不思議な関係が半年ほど続いたろうか。ある時期から前田さんの姿が見えなくなった。職場が変わったんだろうか。気になって別のエレベーターガールさんに前田さんの消息を尋ねたところ、辞めて地元に帰ったとのこと。
 一部の施設を除いてほぼ完全に姿を消してしまったエレベーターガール。前田さんの名前は未だに知らない。


■エレベーターガール by 青木さやか 特徴をよく捉えています(笑)■



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緑のおばさん [その他]

緑のおばさん1.jpg ぼんくら少年には天敵がいた。緑のおばさんだ。緑色の制服を身に付け、緑色の帽子を被ったおばさんが通学路のあちこちで黄色い旗を振り回していたんだ。正式には学童擁護員という。小学生の登校の安全確保がお仕事で、東京都では立派な正職員だ。
 この緑のおばさん、通学路の交通安全にだけ気を配ってくれるだけなら「害はない(笑)」んだけど、この安全確保を拡大解釈して四の五のと教育的指導をおっ始めるオバンが中にはいたんだよね。当時、テストケースで始まっていた集団登校なんかの時はそれこそ、
「ハイハイ列は二列で乱れないっ! 無駄話はしないっ、気が散って事故になったらどーすんのっ!? 脇見はしないで、前を向いてっ」
 なんぞと自衛隊の教官よろしく、異常なテンションで罵声を浴びせてくる。挙げ句の果てには、服装がだらしないだの、名札がついてないだのとウザいのなんの。
 ついにぶち切れた秘密結社死ね死ね団のメンバーは行動を開始。問題のおばさんの指導にはアッカンベェとお尻ペンペンで徹底抗戦。数日後におばさんが学校への通報で報復するという全面戦争に突入した。当時の大人はこういうことがあった時に子供から事情を聴くなんて手続きは一切しなかったから、放課後に職員室での説教があった後、家では親から往復ビンタをくらうハメに。翌日、勝ち誇ったような表情で変わらぬ指導を続けるおばさんにガンを飛ばしたらこれも通報。困り果てた先生がクラスルームの議題にすると、他の子供たちからも不満が噴出してようやく風向きが変わってくる。どうやら件のおばさんと学校側で話し合いがあったようで、じきにこのおばさんは気の毒なぐらいおとなしくなってしまった。
 それでも卒業式の日、正装で登校する仇敵に、
「君たち、知らない間に大きくなってたのね。今日はおめでとう!」
 って涙目で声をかけてくれたおばさんだった。何も言えなくて、ぼんくら少年たちは最敬礼で返したよ。
緑のおばさん2.jpg 昭和34年(1959)に未亡人の雇用対策として東京都で始まった学童擁護員制度だけど、一時期は他の道府県でも臨時職員やボランティアとして広まったものの、自治体の歳入不足や学童の減少などで、現在ではPTAや地域のボランティア活動に移管させるケースが増えて、街中で緑のおばさんを見かける機会はほとんどなくなってしまった。
 ぼんくら次男が小学生なので、ぼんくらオヤジは3週に1度のペースで緑のおじさんを務めている。あくびをし、蚊の鳴くような声で挨拶をする子供たちを見送りながら、財政的には贅沢だけど、これだけ子供たちを取り巻く環境が危うくなっているのなら、あの口うるさい緑のおばさん制度を登校時だけではない日勤の仕事として復活させてもいいんじゃないかと思ったりもする。そうすりゃ、親も早起きして旗振りしなくてもいいもんな(たぶんこっちが本音です^^;)。


■口うるさい緑のおばさんのコント byニッチェ■



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女の子にも人気のあったヒーロー『宇宙少年ソラン』 [漫画・アニメ]

ソラン1.jpg ソラン星でサイボーグにされた少年が地球に帰還し、新人類ミューの一団や宇宙の悪魔ゴロナ、超電子頭脳ガイバーなどの巨悪と闘いながら生き別れの姉を捜す物語。宇宙リスのチャッピーが相棒で、シリーズの途中からはエンゼル号を駆って大活躍するキャラといえば『宇宙少年ソラン』だよね。
 エンゼル号でも分かるようにスポンサーは森永製菓で、昭和40年(1965)から昭和42年(1967)にかけて全96話が放送された。原作者はミステリー作家の福本和也と漫画家の宮腰善勝となっている。どんな共作関係にあったのかは不明だけど、原案や脚本は福本が担当し、原案作成に宮腰が参加しながら、福本の脚本をアニメ化したと考えてよさそうだ。
 チャッピーという和み系のキャラが時として主人公のソランのお株を奪う活躍を見せたことや、ストーリーのカギが「ひみつのペンダント」で、最終目的が「姉との再会」ってこともあってか、この手のアニメにしては珍しく女の子のファンが多かったのも宇宙少年ソランの特徴だった。
 立花ソランって、ヒーローにしちゃこれといった必殺技を持ってなかったところが特徴だったよね。ソラン星の重力が地球の15倍あったので、ソランのパワーが人間の15倍になったという分かったような分からんような設定による馬鹿力はあったけど(笑)。
ソラン2.jpg 場外乱闘というか、手塚治虫と宮腰善勝との間で盗作騒動(漫画界でいう"W3事件")が勃発したことでも宇宙少年ソランは名を残した。あのチャッピーの設定は自分のアイデアを盗んだものだと手塚が激怒し、折しも『W3(ワンダースリー)』を連載中の少年マガジンに宇宙少年ソランの掲載が決まったのを機にW3を一方的に打ち切り、ライバルの少年サンデーで再掲載を始めてしまったのだ。たしかに人物の描き方などは、手塚アニメの真似だと言われても仕方がないほどよく似ている。宮腰善勝は元々、手塚のアシスタントを経て独立しているので、作風が似るのは無理もないんだけど、当時、スパイと疑われて虫プロを追われたSF作家の豊田有恒やその他の関係者の証言は、何らかの形で情報漏洩があったことを臭わせている。
 漫画やアニメが莫大な権益に繋がりだした中で宇宙少年ソランは誕生し、大人にはトキワ荘の青春が過去のものになったことを告げ知らせ、子供たちには森永の販促グッズを撒き散らして、再び記憶の闇に消えていった。


■宇宙少年ソラン『秘密のペンダント』前編 1965年■



■宇宙少年ソラン『秘密のペンダント』後編 1965年■



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ソノシートで音楽を楽しんだ時代 [音楽]

ソノシート1.jpg ソノシートを覚えてる? ペラペラで雑誌のオマケなんかに付いてきたレコードっていうと思い出すかな。
 普通のレコードもソノシートも厚みが違う他は、塩化ビニル製であることも、表面に刻まれた凸凹が針に振動を与えて電気信号に変換される点でも全く変わらない。違っているのは、レコードがある程度の厚みを与えることで安定した形状で高い音質を獲得したのに対して、ソノシートは音質を犠牲にすることで極限の薄さと低コスト化を実現したことだ。
 どれだけソノシートが安かったかというと、日本初のソノシートが発売された1959年に17センチ盤(EP盤)が約300円だったのに対して、ソノシートはほぼ10分の1の価格だった。日本人の平均月収が13,000~15,000円の時代だったし、家庭用のレコードプレイヤーの音質も決して良くなかったことから、ソノシートは急速に普及することになる。
 低コストと薄さという利点を存分に発揮してみせたのが朝日ソノプレス社(後の朝日ソノラマ)の『月刊朝日ソノラマ』だ。音の出る雑誌というコンセプトで、総合雑誌に音のオマケ(ニュース関連の音声やオリジナル録音、音楽等)をつけたようなものだったけど、内容に方向性が無く、当初は売り上げが低迷。やがて英会話や音楽のオムニバス企画にテーマを絞ることで、ようやく安定した読者の支持を得られるようになった。これで力を得た朝日ソノラマは、アニメや特撮ものの主題歌や読み切りマンガを組み合わせた雑誌を次々に刊行し、大人だけではなく子供たちの世界にも浸透していく。
ソノシート2.jpg 当然、ぼんくら少年もたくさんソノシートを持っていた。『ちびっちょもぐっちょ大冒険』『ひょっこりひょうたん島』『ジャングル大帝』『トムとジェリー』『ウルトラQ』などなど、挙げたらキリがない。他にもクラシックの名曲シリーズなんかがあったな。雑誌込みで300円って記憶があるんだけど、昭和40年代ならこんなものだったろうな。親におねだりをして買ってもらえる値段だったことはたしかだ。
 普通は雑誌の中に薄い半透明のポケットが付いていて、そこにソノシートが入っていたんだけど、中にはソノシートが直接、綴じ込んであって雑誌ごとターンテーブルに載せるタイプもあった。基本性能も進化し、最盛期の70年代にはステレオ録音ができるぐらい音質も向上したし、当初は片面しか切れなかった溝も、通常のレコード同様、両面に刻むことができるようになった。
 変わったところでは、コンピューター・プログラムのアナログ信号を配布するための手段としてソノシートが使われたなんてこともあったけど、これはノイズが多過ぎてマトモに読み込んでくれなかった。
 結局、本家のレコードと一緒に衰退の一途を辿り、平成17年(2005)には国内生産を終了して終焉を迎えたソノシートだけど、もし家にあったら捨てちゃダメだよ! 状態が良ければオークションで数万円の値が付くこともあるからね(笑)


■冒険ガボテン島エンディング曲『いつもコンビで』 ソノシート音源■



■ウルトラQ 海底原人ラゴン ソノシート・ストーリーより■



■THE MODS 『うるさい』 ソノシートが音源だよ♪■



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ナショナル『ハイパー乾電池』はこうして生まれた [テクノロジー]

ナショナルハイパー電池.jpg 少年時代から大変お世話になっているハイテク・ツールが電池だ。
「電池ってローテクじゃん」
 そう思ったら大間違いだ。電気自動車やハイブリッド車の命運がバッテリーにかかっていて、その開発に途方もない労力と技術力が要るのは今や広く知られているように、電池の開発能力は時代の技術力を反映するものなのだ。
 話は昭和25年(1950)に遡る。同年6月に勃発した朝鮮戦争は日本の産業界に未曽有の特需をもたらした。皮肉な言い方をすれば究極のアウトドアともいえる戦争は膨大な電池を必要としたため、既に業界の雄であった松下電器は、特に需要のあった乾電池の国内生産を昭和27年(1952)に決意する。単独生産の技術力を持たなかった松下は、現実的な方策としてアメリカの乾電池メーカーとの技術提携を模索したんだけど、そこは後発組の悲しさというか、高い特許料が壁になって交渉はほどなく行き詰ってしまった。
 これを見て、当時の専務で技術本部長だった現中尾哲二郎技術最高顧問は創業者の松下幸之助にこう進言する。
「そんな多額の金を払ってまで技術導入する必要はありません。第一、それだけの金をかければ、うちが独自に開発しても必ずいいものができます。ぜひやらせて下さい(注参照)」
 中尾氏の熱意を受け止めた創業者は、
「それだけ君が熱心に言うのであれば、ひとつ君がやってくれるか(注参照)」
 と、社運をかけた独自の技術開発を即断する。やっぱりスゴい人だね、松下幸之助って。
 この決定を受けて、松下は全社を挙げて乾電池の研究開発に取り組み、なんと翌々年の昭和29年(1954)には、アメリカを凌ぐ高性能の電池『ナショナル・ハイパー乾電池』の開発・生産に成功したのだった。松下幸之助は後にこう語っている。
「私をこの決断に踏み切らせたものは技術責任者の熱意であった。その結果、やはり熱意はものを生んだ。こうした成果は、単に相手に勝てばよいという気持ちから生まれたものではない。互いの切磋琢磨によって、少しでも良いものを社会に供給したいと願う技術陣みんなの熱意と真剣味が、このような成果を世に示したのだと思う(注参照)」
 ボクらがオモチャに入れて使っていた電池には、戦後日本の技術者と経営者の気骨と血の滲む努力が込められていたんだね。

注: 本稿の内容骨子と会話部分は、「パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館メモリアルウィーク特別展プレイバック」中の『松下幸之助の志 ~Panasonic ideas for life の原点~』に依っています。


■ナショナル ネオハイトップのCM 1980年代 もうこんなことやってたんだね♪■



■ナショナル ウルトラネオハイトップのCM 1980年代■



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